そいつは、コンビニ横の駐車場にいた、一匹の猫であった。 　黒い猫であった。 　全身黒いが目は黄色い。夕暮れの今でこそ見つけられるが、日が沈み切ればその身を夜に沈めるような、そんな猫であった。 　野良猫と呟いたものの、正しいとは思わない。首輪こそしてないが、しかし飼い猫が皆首輪をするはずもなく、放し飼いが常であろう猫が外をほっつき歩いたからと言って、おいそれと野良だと決めつけてしまうのは早計だろう。 　私がぼうと眺めていると、猫もこちらに気付き、足元にすり寄ってきた。随分と人懐こい。周囲を見れば、コンビニの入り口近くに猫のエサらしき物が入った小皿がある。どうも、こいつはここに住みついているようだ。私は適当に毛を撫でてみるが、猫は大した抵抗もせず、されるがままだ。 　猫を撫でながらも頭に浮かぶのは、私を振った男の事ばかりだ。数年の付き合いだったが、先日別れた。それ以来、ふとした瞬間に奴の憎い面が脳裏に浮かぶようになってしまった。 　思えばアレも猫の様な男であった。気まぐれで中々都合が合わず、ようやくデートをこじつけたかと思えば平気で遅刻し、およそ予定通りに行った試しが無い。しかしそれでいて甘えるのが上手く、表情や所作の一々に滲ませる人懐こさが、私に彼を許させた。 　私が甘かっただけかもしれない。 　憎いと言いつつ何度も顔を浮かばせる、私の甘さだ。 　なぁと、野良猫が鳴く。 　私が振られたのは。 　彼には元々付き合っていた女がいたからだ。 　なぁと、野良猫もなく。 　私は彼の浮気相手だった。 　私が振られたのは、浮気が相手にバレ、糾弾され、怒られ、その後に仲直りをした彼が、もう会わないよと、名も知らぬその女と約束したからだ。 　おそらくは。 　彼は飼い猫だったのだ。首輪の無い、飼い猫だったのだ。 　私は野良となった。元より、野良のままだった。 　別れを告げられた日、都合が合わないのには理由があったのだなと、妙に合点がいったのを覚えている。 　黒猫は、暫く私の好きに体を触らせていたが、エサが貰えないと察したのか、不意に私の手をすり抜けると、そのままコンビニの裏手へと歩きだしてしまった。 　すり寄り、喉を鳴らし、好きに触らせ、媚びるだけ媚びて——そうして何の未練も無く去っていくものだから、名残惜しさばかりが残った。 　爪を立て、傷の一つでも付けてくれれば諦めも付いただろうに。 　私は後姿をじっと見つめたが、彼が振り返る事は無かった。

　冷たい雨の中、座りこんだまま動けなかった。 　背中に気配を感じて振り向くと、一匹の猫が私の背中に頬をこすりつけていた。 　誰かに愛されている猫の顔だ。少し寂しそうに見えるから、もしかしたら、誰かに愛されていた猫なのかもしれない。 「お前も捨てられたの？」 　小さく尋ねると、人間の言葉がわかっているかのように、「ナァ」と鳴いた。 　私と同じように、大切な人が去っていくのをここで見送ったのかもしれない。 　きっとどこにでもある別れ話。 　気がついたら……彼の服の袖をつかんでいた。 　自分でもビックリした。どうせフラれるってわかってたんだ。だから、その時が来たら、絶対にキレイに別れてやろうって。 　彼のため息が、ポッカリと空いたココロに重く吹きかかった。 　私の手なんて簡単に払いのけることが出来るはずなのに。それが出来ないでいる彼は……今、なにを思っているんだろう。 　『人の気持ちなんてわからない』って口癖のように言ってたよね。 　『わからないから諦めるんじゃなくて、だからこそ、知りたいって思う気持ちが大切なんだ』って。 　彼は私のことをもう知りたいとは思わないんだろうな……。 　私が何を言っても彼には届かない。 　この猫を捨てた飼い主と同じだ。 「待ってよ」 「行かないで」 「一人にしないで」 「ホントにこれで終わりなの？」 「ずっと一緒にいたいよ」 「また会ってくれるよね」 「好き」 「大好きだよ」 　猫がいくら叫んでも、飼い主には届かない。だから猫は、飼い主が去っていくのを、見つめることしかできない。 　飼い主の後ろ姿を見送りながら、猫は何を思っていたのか？ 　私にはよくわかる。 　待っていたんだ。 　飼い主が走って戻ってくるのを。 　息を切らして戻ってきて、「ごめん」って言うのを待ってるんだ。 　もう一度、抱き上げてくれるのを待ってるんだ。 　だから、動けないんだ。 　動けなかった。 　動いてしまったら、彼が戻ってきた時に私を見失う気がして。 　動けなかった。 　そんなことあるわけないってわかってるのに、それでも期待している自分を捨てることが出来なかったから。 　動けなかった。 　初めて涙がこぼれた。 　いくら泣いても、彼が戻ってくるはずもないのに。 　猫の声は届かないのに。 　 「ナァ……」

「まるで宇宙ね」 ボクの顔を覗き込み、じっと見つめそう呟いた。 「キレイな瞳…、まるで宇宙みたい」 薄暗い路地裏に佇むボクを、君はキレイだと言う。 泥や埃にまみれたボクを、君はいともたやすく抱きかかえる。 ボクはこの時、君を守りたいって強く思ったんだ。 === 君との生活は快適そのもので、君はボクに沢山の事を教えてくれた。 「ほら、あの空の向こう側に宇宙があるのよ」 ボクの小さな手を、ご丁寧にその方へと導く。 「宇宙は『ダークマター』って呼ばれる謎の物質でできてるの。 　残念ながら、私たちには見ることができないけどね。存在するの。」 なぜ君は見えないものを信じているのか？ ボクには到底理解が出来なかったから、少し不満を込めニャーと鳴く。 すると勘の鋭い君は、ボクを優しく撫でながら教えてくれた。 「目に見えないものも存在するの。言葉は見えないでしょ？けどほら、こうして話ができる。 　心も見えないけど、気持ちはちゃんと伝わる。 　それってなんだか奇跡みたいなものだけど、存在するのよ」 === そろそろだ。 小さな箱（部屋）の中、ボクは毎日君の帰りを待っている。 窓から見える四本足の高くて細長い塔の灯りが消えると君の足音が聞こえる、 そんな日常が今日は少し違っていた。 「…ただいま」 ゆっくりと開く扉、小さく掠れた声… ボクはすぐに気付いた。君に“何か”あったという事を。 「…ごめんね、遅くなって。」 早速ボクの食事の準備に取りかかり、終えると君はそのまま膝を抱え丸くなった。 たまにあるんだ。 それは突然に、なんの前触れもなく。 ボクはそれが起こる度に、膝を抱えたまま俯く君の背中に寄り添い、 そして、君が教えてくれた『ダークマター』の話を思い出す。 コトバが見えなくても、ココロが見えなくても、奇跡は起きるということを。 “ダークマター、お願い、奇跡を” “悲しみや苦しみが全て消えますように” “お願い、ボクの願いを叶えて！奇跡を起こして！” 「フフ…あったかいね」 触れた君の背中が小刻みに震え、そしてクスクスと君は笑い始めた。 あぁ良かった、奇跡が起きたんだ！ ボクの願いは叶えられたんだ！ これから、どれだけ君の側にいてあげれるか分からない。 けれど、どうか忘れないで。 何度でも生まれ変わって、ボクは君と出会ってみせるからね。 君の側にずっといるからね！ 「ありがとう。大好きよ」

色はある　音もわかる　味がする　体が動く 辛いのは、変わってしまった世界にひとりぼっち——そんなの所詮噂だった。 心はもう戻れないのに、この部屋も体も、不思議なくらい普通のままだ。 セミは泣いて、ここは暑さのない深夜。 懐かしい夏の気だるさよりも大きな痛みが走るこの心は、 どこかが凍って冬のようだ。 今年はまだ、夏を知らない。 ——私は夜に住んでいるのか—— 　　そうとしか思えない程、目の前の世界は、いつだって暗くくすんでた。 　　輝き出した都会のネオンもイルミネーションも、明るいだけでただの作りモノ。 　　そんなの知っているけれど、 　　抜け出した街の深夜、馬鹿みたいに舞い踊って酔いしれてシアワセを歌った。 　　虚構だってなんだって、満たされていたかった。 　　もっと幻想みたいな現実が欲しくて、いつも、迷走みたいな日々を走った。 　　何度も、何度も何度も抜け出したいともがいた、その手で空を切って、明るいところへ。 　　もう無理だ・・・壊れた心でうなだれたあの日、私は、キミを見つけた。 　　言葉が追いつかない、ホンモノの気持ちに高鳴った。 　　まるで夜に咲く虹色の居場所を見つけたから、私は弱いまま強くいられた。 　　音にならない声でシアワセを唱えた。 　　暗い夜も素敵だと、温もりを教えてくれたキミの隣で。 生成りのカーテンが薄く朝光を透かす。 沈んだこの部屋から浮いた色が心地悪い。 あの頃、私、ひとりじゃなかった。 ここにも、愛があった。 今も隣で眠る君の、この顔も心も手放せなくて、ため息は溢れても 離れていくのは止められないとわかってる。 冷め切った心で望むのは愛なのか執着か、 どうでもいいから欲しいのは・・・ 君の語った藍色の桃源郷が、 ふたりシアワセになれるその場所が、 真実にあるのだと証明してほしかった。 今更溢れる思いに溺れてる心はもう、空っぽで何も生まれない。 いっそすべて忘れられたらいいのにね。 変わらない部屋に君とふたり、 懐かしい時間に距離が生まれる。 思い出すことがまだ私を温めるのは心が狂ってるこれも宵のせい。 今じゃもう、何もかも知らない、純粋な世界じゃ息が詰まる。 何も隔てるものがなくても、私に君の心はのぞけない。 いつかこんな未来が来ることよりも、 愛を先回りして逃げ出した世界の後悔を、 今ならあの頃の私に教える。 背中を伝う小さな温もりが、心に染み付いた温度を蘇らせる。 期待と現実がループした、残酷な雨に打たれても、 今もこの心は間違いを繰り返す。 私はいつまで、ここに鎖で繋がれたままなんだろう、、。 首輪もない黒猫の、この子の方がいっそ自由だ。 朝日昇る街の影に落ちて今、すぐそこにある光も、私には眩しすぎる。 君を見つめながら忘却を誓う、 今はまだ、もう少し、このままで・・・

　柔らかな雲の上で、背中合わせに座っている。 「見えるものだけがあるわけじゃないんだ」 君はいつもそうやって難しいことを言う。そんな哲学みたいなことを言われたって私にはまるでピンと来ないのに。黙っていると君は助け船を出してくれる。いつものように。 「つまりさ。目に見えるものが本物だとは限らないってことの裏返しなんだよ」 あ、その話なら分かるわ。 「それってつまり、お寿司屋さんのショーケースにある食品サンプルは、美味しそうに見えても本物じゃないから食べられないって話でしょう？」 君の背中がくすりと笑う。あれ、違ったのかしら。 「そういうのもあるのかも知れないわね」 やっぱり違っていたみたいね。 「憶えているかい、見えない星の話」 　あ、それなら憶えているわ。確か光を放っていない星は遠い宇宙からは見えないという話。 「憶えているわ。地球は遠い星からは見えていないっていう話でしょう」 　満足そうに背中が頷く。 「僕の姿が夜には見えないのと同じようにね」 　そうか、今日もまた夜が来るのね。すると改まった声で君が尋ねる。 「もし今日の夜が二度と明けることがないとしたら、君はどうする？」 　また哲学の話かしら？難しいことは分からないけど、そうしたらどうなるのかなら分かるわ。 「もしそうなら、私は君の尻尾を掴んで離さないわ。だってそうしないと、もう君を見つけることが出来なくなってしまうから」 　君はしばらく黙っていて、そうして、ふ、とこう答えた。 「ふーん、そうかい。だったら尻尾を掴むのはやめて欲しいな」 　 　背中の向こうの君が少し震えているみたいに感じたのは、もうすぐ日が暮れてしまうからだろうか。私は、不意にもしかしたらもうこのまま君と会えなくなってしまいそうな予感に囚われて、背中にいる君を抱きしめようとした。 　だけどそこには誰もいなかった。 何日も何日もの間、ずっと会話をしてきたはずの君は、一体誰だったのかしら。こんなにもたくさんのことを教えてくれた君の存在は、私にとってかけがえのないものだったのに。 「見えるものだけがあるわけじゃないんだ」 　君の言葉のリフレイン。もしもあの時、君を抱きしめようとしなかったら、今も私の背中に君はいてくれたのだろうか。見えなくたってそこにあると、私はどうして信じられなかったのだろう。 　やがて夜の帳が降りて、それから私はもう二度と君を見つけることは出来なかった。

空がやけに暗く見えた。 　私の目に映る世界がどんどんぼやけていく。一人きりになって気づく、部屋の広さとか、ふとしたときに感じる、心細さ。不安は、尽きることなく降り積もってゆく。白くなんてない、雪とは違う、ただただ不明瞭な灰色。 「お前も捨てられちゃったか」 　捨てられた、というのは語弊がある。この子は私達が育てた子だ。名前はクロ。ひねりがなさすぎると怒った私に、あいつは『わかりやすくていいじゃん』と笑った。……そんな、何気ない情景が過って泣きたくなった。 「最低だよね」 　にゃあと一つ返事をされた。 　泣けてきた。 　クロは私よりあいつになついていたし、いつもあいつの帰宅時間前には玄関に駆け寄ってたのに。 「現金なやつめ」 　いつか思い出になるだろう今も、ただただ痛くてつらい。泣けてきたなんて言っているのに涙一つ出てきやしない。何がいけなかったのか、なんて振り返ってもありすぎて、なさすぎて、言葉が出ない。 　人間って不思議だ。いや、私が不思議なのかもしれない。 　私は、何を間違ったのかすら、自分で分かっていないのだ。 　降り注ぐ雨、降り注ぐ不安、涙一つ出ない空っぽの自分に、明日が来るのだろうか……なんて思っても明日は変わらずやってくるのだ。 　無遠慮に、ただ平等に。 「……一緒に、いてね」 　くりりとした黄色い目が、欠けた月のように弧を描く。クロはいつだってきっと、私達の、猫だった。 　背中越しに伝わるぬくもりを、あたたかさを、無遠慮に受け取れるほど、愛し返せるほど、今の私には余裕はないけれど。 　それでもいいよと君が鳴くから。 　くるりと寄り添うしっぽが、私を支えるから。 「……もう少しだけ、こうしていてね」 　過ぎ去る時間も、やってくる今日も、空っぽの部屋も、自分も。 　君と一緒に受け入れよう。 　午前六時には、君に少し早いご飯をあげて。 　少しだけ、君の愛を受け取るから。 　――――それまでもう少しだけ、君に甘えさせて。

学校からの帰り道、黒猫が家までついてきた。 首輪をしてないのに、毛並みはつややかでノミもいない。 「誰かの飼い猫だったのかな……」 飼い主がいるなら、探しているかもしれない。 「……一時保護ってやつだよね、うん」 足元にまとわりつく真っ黒な毛玉を抱き上げる。 想像より重い。 自分の言葉が言い訳だなんて、わかっていた。 すべすべして柔らかな生き物は、どうしようもなく愛おしくて。 それは、数日前に別れた先輩に似ていた。 先輩は、猫みたいな人だった。 自由で、気まぐれで、甘えたかと思えば、次の瞬間はそっけない。 その身体は柔らかで、抱きつくといつもいい匂いがした。 夜行性で、美人で、スカートをあたしより短くしていた。 先輩を思い出しながら、黒猫を撫でる。 午前２時。 先輩と付き合うようになってから、あたしもすっかり夜行性になった。 夜中に突然この部屋へやってくることもあったし、 朝まで営業してるおしゃれなカフェに、ちょうど今くらいの時刻に 呼び出してくることもあったから。 だから夜ふかしはすっかり習慣になって、別れた今も眠れない。 先輩が来ることのない夜の部屋は広く感じていたけど、 今は黒猫１匹分だけ狭い。 「どうすれば良かったのかな」 あたしはきっと、先輩を自分の飼い猫にしたかった。 いつも一緒にいて、その２つの瞳があたしだけを見る。 それが理想だった。 でも、飼い猫になったのは、あたしの方だった。 心に首輪をつけられて、連絡を待ちながら、訪れを待ちながら、 夜を明かしていた。 黒猫はまだ起きていて、あたしに背中をあわせて座る。 午前４時。 部屋の中は暗い。 窓の外には、わずかな街の明かり。 この明かりの下にいる人たちにとって、女子高生の失恋なんて、 きっと最高にどうでもいい。 「もう、忘れればいいのかな」 全部リセットして。愛したことを忘れて。 先輩と出会わず、本気の「好き」も知らない、ただの女子高生に戻る。 「そんなの……やだよ……」 だって、あたしは先輩に愛されたいんじゃない。 あたしは、先輩をもっと愛したかった。 だけど、もう先輩にあたしの声は届かない。 あたしの愛情の檻の中から、するりと抜け出していなくなってしまった。 午前５時。 秋に差し掛かった今、まだ日は登らない。 「ねぇ。もしかして君も、重たい愛から自由になりたかったの？」 黒猫は何も答えず、背中にかすかな温もりだけを伝える。 その温かさを感じていたら、少しだけ眠れる気がした。

　アラームの音がする。ベッドに横たわってスマホを見る。 　まだ午前２時だった。 　窓の方を見ると、カーテン越しに月明りが漏れている。 　飼い猫のミカヅキが死んでもう一週間が経つ。 　自分が小さい頃から一緒に育ってきた家族だった。 　学校でどんなことがあっても、あの子がいてくれればそれでよかった。耐えられた。 　でも、あの子はもういない。いなくなってから心の傷は、癒えるどころか膿んでいく一方だ。 　そんなことを考えているうちに――ああ、また気怠い睡魔が襲ってくる。 　このまま自分も天に召されないかな。そんな淡い願いを抱きながら微睡みに身を任せる。 「ねぇ、キミ！　大丈夫？」 　どこからか声がする。頭に声が響いてくる。 　瞳を開ける。目の前に一匹の黒猫――ミカヅキがいた。 「ミカヅキ！？」 　驚いて飛びのくと、ミカヅキも毛を逆立てて飛び退く。 　さらに自分はあたりを見渡して、叫び声を上げる。 　あたりには一面の雲。眼下には、夜の街が広がっている。 「ミカヅキがしゃべってる……。ゆ、ゆめだよね！？　ん、い、いひゃい……。夢じゃない？　え、ほんとに死んじゃったの？　ここどこ！？」 「びっくりしたのはこっちだよ。うっかり食べ物を喉に詰まらせた？」 　耳からはにゃーという猫声が、頭には優しい声が同時に響く。 　ミカヅキが心配そうにじっと瞳を覗き込んでくる。 　自分はたまらず、ミカヅキを抱きしめた。 　ミカヅキはじたばたと暴れたあと、目の端から流れる涙を舐めて掬い取ってくれる。 「キミは泣き虫だけど、弱くなんてないよ。僕を立派に育ててくれたじゃないか」 　顔を上げる。抱きしめた腕からミカヅキが離れる。リン、と首輪から鈴の音が響く。 　にゃお、とひと鳴きしてどこかへ走り、しばらくしてこちらを振り向く。 　ついてこい、と言っているようだった。 　ミカヅキに導かれるまま歩く。この子と一緒に歩いた街を見ながら、いつかの散歩のように、足取りは徐々に軽くなっていく。 　 　ミカヅキが立ち止まる。 　水平線の向こうをじっと見る。眩い光が向こう側から立ち上っている。 「あれに向かって歩いていけば起きられるはずだよ」 　いやだ、と叫びたくなる。でも、それが許されない。 　自分が一番よくわかっていた。このままじゃいけない。 　光の方へ向かって歩く。 　黒猫の影が薄れていく。 「ねぇ、またいつか会える？」 「長い長い時間をキミが生きたあとにね。お土産待ってるよ」 　彼の優しい声を遠くに、私は太陽の光で目が覚めた。