ねぇ、私、ひとつ隠し事があるの。 でも……うーん、いや、君には教えない。 だめ、なんて言われてもだめだから！ 絶対に教えない！ ㅤ ──僕は、静かな空間に暫しの安らぎを求めた。 見慣れた景色に、ビニール傘がひとつ。 ㅤ ここさ、変なとこだよね。 線路もないのに踏切だけ置いてある。 それに車も通れない。ほんと変なとこだね。 だから、ここは、私たちの秘密基地。 ㅤ 行かないでほしいな、やっぱり。 私を置いていかないでほしい。 勿論、君の気持ちだって分かってるし、やりたいことも知ってる。 でも！ ……いや、なんでもない。 ごめんね、こんな我儘聞かせて。 凄いね、すっかり大人びちゃって。 ずっと私に甘えてた頃が嘘みたい。 あれ、ひょっとして……今私の方がちっちゃい？ あーあ、遂に抜かされちゃったかー…… ねえ、そんな顔しないでよ。 ほら、隣おいで？ㅤ傘貸すよ？ ㅤ ──違和感という違和感に回れ右をさせた。 現実逃避と言われれば、確かにその通りだ。 晴空、赤紫色に反射する石畳の延長線を眺める。 曖昧な視界、君が次第に掠れていくのは何故？ その理由はもう分かっていた。呑み込みたくはなかった。 ㅤ おいで、ほら。 どうせ誰も来ないし。 あ、だめ。おいでとは言ったけど触らないで。 え？ㅤなんでって…… 君が落ち込むのを見たくないもん…… ㅤ ──今この瞬間が如何なる意図で、此処が何の為に設けられた空間なのか、僕はとっくに悟っていた。 だが、その事実と向き合う決意は揺らいでいる。 例え話の中に生き甲斐を求めていた僕の命綱は、 恩を仇で返されるような形で役目を終えた。 ──前に、進まなきゃ。 それが、彼女の望み。 それが、彼女の祈り。 ㅤ 私は君のこと、遠く離れてても応援してるからね。 それで、数十年後でいいから、 どんなことができたか、どのくらいの人を笑顔にしたのか、教えて。 ……え、結局、何を隠し──かって？ ──たじゃん、教──いっ──。 だ──── 君が落────のを──た──ない───── ㅤ ──僕は静かにその場を立ち去った。 こんなひどい顔、見せられるわけもなくて。

　広がる水面（ミナモ）に、靴が跳ねる。 　透き通った水は浅く、底の石畳がよく見えた。 　少女は雨も降っていないのに、傘を差して踏切前まで歩く。 　今日も、踏切は閉まったまま。向こう側は遠く、石畳の道は途切れて、そこから先は先ほどまでの浅い鏡面のように反射した水面ではなく、深い流れのない川のような、底なしの湖のようなものが待ち構えている。 　足下の透き通った水とは別の濁った黒い水だった。 　向こう側には行けないらしい。 　少女は傘を閉じて、しゃがみ込む。まぶたを閉じると、踏切が開き向こう側から傘を差した少年が笑顔で手を振っている。立ち上がった少女は先ほどよりもずっと幼い。短かった髪が長く、花柄の傘を差している。黄色の長靴の少年と二人して手をつないで、笑い合っている。 　少年がやがて、踏切の向こう側へ戻っていく。傘を閉じて、うなだれている。 　少年は、大きなダムのような場所で働いている。黒い長靴、黒いカッパ。顔には泥と汗。 　ベルトコンベアに流れてくる空き缶に入ったキラキラした水を、少年と他の大人たちがダムにたまった濁った水の中に流していく。 　水に浮かんだ光の中に、人の笑顔や、子供たちが駆け回る姿が浮かぶ。結婚式を挙げる若い男女、生まれる赤ん坊。 　けれど、綺麗な水はいっぱいにならない。 　たまった水は、またすぐに濁ってしまう。 　水がどんどんと淀んでいく。黒い水だ。 　少年はそれでも諦めず、水を流し続ける。汗を拭う少年は、かつてのような幼さではなく、背が伸びている。空き缶だけでなく、大きなドラム缶も使って、たくさんの水を運んでいる。 　汗で手が滑りドラム缶を落とした。キラキラと光る水が床に散らばってしまう。 　握ったこぶしを床にたたきつけようとした時、こぼれた水から、少女の笑顔が浮かんだ。踏切前で毎日傘を片手に遠くを見ている。とても幸せそうには見えなかった。だけどどの水よりもキラキラと輝いていた。 　少年は立ち上がって、水を運び続ける。 　少女は今日も傘を持って、踏切の前まで来た。 　雨は降っていない。 　目の前の踏切が上がっていた。水は綺麗に透き通り、薄らと石でできた橋が見える。 　少女は、そっと石の上を歩き、向こう側へと進む。 　傘は閉じない。閉じる、ほんの数秒も惜しんで。

君を取り戻す為の梅雨が始まる。 六番線の電車に乗って、記憶の駅へ降り立つ。 雨の日に君は自転車ではなく、電車通学を選ぶ。 投入口から何度も吐き出されるシワの千円札。両替にてこずる君の背中から差し出した僕の札は、吸い込まれ小銭に変わる。 これが同じ高校の君との出逢いだった。 雨に滲みたシャツは模様を作る。傘をぶら下げ、誰もが急いでいた。騒がしい通勤ラッシュに掻き消される声。 僕等は密やかに筆談で言葉を交わした。 ノートから溢れる癖のある丸文字。ふたりだけの言葉みたいだった。 いつしか僕は雨が好きになり、目が覚めると耳を澄ませ、カーテンを開け、雨が降っているか確かめる様になっていた。　 流れる街、揺れる吊り革の下。大きなカーブに膝へ置いた筆箱からシャーペンが溢れ出し、床へと散らばった。慌ててペンを拾い集める僕。 「これでまとめて」 君は手首のヘアゴムを抜き取り、僕へ手渡した。 梅雨も終わり、その日を境に雨は降らなくなった。 そして、君は急な転校で引っ越したのだと風の噂で知った。 どうして転校したのだろう？　皆目見当もつかない。 手元に残ったのは青いヘアゴムだけだった。 青嵐の光の中、突然にして訪れた六番線の電車に乗って、記憶の君へ会いに行く。 最後の雨の日へ降り立つ。　 ヘアゴムを握り締め、君のクラスの教室へ行った。 「えっ？　あいつなら当分教室へ顔出してないぞ。援交してるって噂だしな。もしかしてお前アイツの事好きなのか？　やめとけよ」 「あの子、私の彼氏にもちょっかい出してきたの。ほんと最悪だよね」 僕は走り出していた。そして、辿り着いたのは宿直室。と言っても今は使われておらず、埃を被り倉庫となっている。 「どうしてここが？」 「保健室の先生から聞いた」 「私、変な噂が立ってる。心当たりがないんだけど、クラスの女の子が私の事嫌ってるみたいで。だからここで身を隠してるの」 「学校に着いて僕と別れた後、君は教室じゃなくいつもここへ向かっていたのか」 「もしかしてあの電車に乗って未来から来たの？」 「えっ？」 「私、あなたの乗った記憶行きの電車に跳ねられたから。時の捻れに迷い込んでる」 「どういう事？」 「ヘアゴムを渡した日のあなたに会おうとしたの。転校も取りやめて、伝えたい事があったから」 宿直室の扉を開け、傘をさす。そこは梅雨の世界。 君は踏切を前に小さく手を振った。

何もかもが嫌になった。 だから私は逃げた。「逃げ出した。」 何もないところへ行きたい。ただそれだけを思って。 何処へ行くのかも分からない。何処に着くのかも分からない。行先不明でいい。 「無になりたい。」 ただそれだけ。 とにかく歩いた。走った。「走った。」無我夢中で。 どれだけ経ったのか分からない。此処が何処だかも分からない。「分からなくていい。」 ————むげんえき そうか。無現駅。私が望んでた場所。’無’が”現実”になる。 辺り一面岩と氷。殺風景な様子が一段と私の心を騒ぎ立たせる。 また、歩き出した。今度は漠然とただただ歩いた。 気が付くと先ほどの駅が見えた。戻ってきてしまった。まっすぐ歩いただけなのに。「何故。」 「世界は丸い。」 そう誰かに教えられた気がする。 「ちっぽけな世界。」 そう思った瞬間からこの世界がつまらなく思えてしまった。 あれほど無にこだわっていたはずなのに。がんじがらめの世界から解放されることを誰よりも望んでいたはずなのに。 　―――「刺激がほしい。」―――「しげきがほしい。」―――「シゲキガホシイ。」――― 遠くから鳥のさえずりがした。だんだん近くにはっきりと聞こえてきた。 目の前の景色も眩しくなってきた。 ————朝日だ。朝だ。 　　使い慣れたベッドのシーツが汗でぐっしょりだった。 どうやらあれは夢だったらしい。「夢でよかった。」 むげんえき。本当は無現駅ではなく、’夢’のような”幻”の場所、「夢幻駅」だったのだろう。

　終着駅がこうなることは、はじめからわかっていたはずなのにーー。 　2033年、5月初旬。4月からずっと降り続く雨のせいで、大地は沈むように水没してしまった。 　季節の境界線は溶けて落ち、辺り一面蜃気楼に覆われている。 　どうやら世界は、揺らぐように反転してしまったみたいだ。 　その曖昧で道ならぬ光景は、私と彼の関係を物語っているかのようだった。 「あの場面、最っ高だったよね？」 　それは、流行りの純愛映画を見た帰り道だった。 　いまさら満開になった桜が、黄昏時の水面を染める。 　2人でひとつの傘に入り、私は上機嫌に浮かれていた。 「……、あぁ、うん」 　上の空でおざなりな返事をした彼が、不意に坂の上の踏切で立ち止まった。 　くるはずのない電車を待つその視線の先で、徒桜がゆらりと散った。 「すきなひとが、できた」 　その言葉は、“恋愛ごっこ”の幕引きを意味していた。 “恋愛ごっこ” 　それは、私と彼が犯した泡沫の秘めごとだった。 　すきでもない相手と、まやかしの恋愛関係を結ぶ。 　手を絡めてキスしたり、抱き合って体温を感じたり。 　そうしてお互い、掠れる孤独を紛らわしていた。 　でも、もう一緒にはいられない。 　彼に愛するひとが、できたのだから。 「そっか、よかったじゃん」 　平静を装って、素っ気なく返事をした。 　だが、身体の奥が摘み取られたみたいに、痛い。 　彼は何も言わない。ただ、いつものように寂しげに笑う。 　その切なすぎる笑顔が、影に沈む憂いとなって心を透いた。 「じゃあ、バイバイだね。今までありがとね」 「こっちこそ、ありがとな。楽しかったよ」 　彼が私に、触れることはなかった。 　最後ぐらい、きつく抱きしめてほしかったのに。 　そっか、もう此処にはいないんだね。 　いや、そうじゃない。 　はじめからいなかったんだ、彼の心は。 　私に傘を託し、優しげに告げる。 「お前も、早くいい奴見つけろよ。元気でな」 　降りしきる花時雨に紛れ、彼は遠くに発った。 　去り際にひとつ、残酷な言葉を残して。 　この偽りに満ちた純愛映画の結末に、気づいてしまった。気づきたくなかった。 　彼を、愛していたなんて……。 　光の雫が瞳に溢れ、もう誰もいない坂の上の影が揺らいだ。 　すれ違う柔い風に、向かう先を愛おしく想った。 「ばかじゃん、私」 　水面を足先で弾き、温い空気を浅く取り込んだ。 　空高く傘を解き放ち、火照る想いを冷たい雨が嗜めた。 　そして、独り歩いていく。 　春の最期を道連れに、揺蕩う恋はゆらゆらと消えていった。

「そろそろ行かなきゃ」 彼女がおもむろに言い出したのは、 4月も終わり、ゴールデンウィークに差し掛かろうというころだった。 この生活は永遠じゃない。 知っていたつもりだったけど、心臓がばくりと音を立てた。 その年はなかなか春が来なかった。 天気予報士は、あまりにも長すぎる冬を『史上最強の冬将軍』と名付けた。 異常気象は、十数年前まで問題になっていた温暖化の反動だという説が一般的で、僕もそう思っていた、 彼女を庭先で拾ったあの時まではーー 連れ立って歩く彼女の手にはビニール傘が握られている。 彼女が歩くそばから雪が溶け、小さな緑の草が顔を出す。 それらに足をとられないように気をつけながら、 倒れていた彼女が唯一持っていた持ち物がその傘だったことを思い出した。 足に大怪我をして、血まみれで気を失っている彼女を介抱したのが3月のはじめ。 それからほぼ2か月。 「なんか、長居しちゃった」 あなたの家が居心地よすぎて、と髪を耳にかける彼女はこちらを見もしないけれど。 心臓がまたひとつ、音を立てる。 吸い込んだ空気が妙に暖かったのは、なぜだったか。 「あのね」 街のはずれ、とっくに廃線になった鉄道の踏切まで来たとき、彼女が意を決したように言った。 「私、好きだったよ、あなたのことが」 思わず立ち止まった僕の数歩先で振り返りもせず、 感情を押し殺した声で小さく続ける。 「私は、季節をもたらすもの。あなたは、季節を過ごすもの。 一緒に生きることはできない。 それでも想ってしまう、愚かな私を許して」 あ、と喉の奥から息が漏れる。 なにか言わなきゃ、と焦るけど、言葉が出ない。 「だから、もう行かなきゃね」 ゆっくりと傘を開く彼女。 「私が居座っていると、季節が進まないもの」 パチン。 とたん、傘が立てた小気味良い音を合図に、あたり一面にゆるい空気が漂った。 大地を冷たく縛っていた空気がかき消え、一気に雪が溶ける。 春色に染まった空のグラデーションカラーを雪解け水の水面が映し、生に満ちた空気が彼女の髪を揺らして。 息を呑むほど美しい光景。 そしてどこか懐かしい景色。 「待ってる」 必死で言葉を紡ぐと、彼女がびくりと肩を揺らした。 「ずっと、この街で待ってるから」 だから、来年も必ず。 彼女がこちらに体を向ける。 静かに笑って、うん、と小さくうなずくと同時に彼女の姿は桜色に染まり、 やがてあたたかな陽気にふわりと消えた。

　季節は巡らない。溶けた冬が道の傍に溜まり、春になりきれないまま止まってしまった世界。その中に、彼女は独り佇んでいる。その視線がどうにも寂しそうなので、できるだけ優しく、暖かく、彼女の髪の毛を揺らした。 　これは彼女の作り出した虚である。春になりたがっているはずの世界を、彼女自身が拒んでいるのだ。彼女の目の前には、線路のない踏切。その向こうに続いていた街は、いつの間にか消えてしまった。遠くで飛ぶ鳥も、さほど重要ではないのだろう。何者かもわからないまま、ふらりと現れてはそのままどこかへ流れていく。そんな世界に電車など来るはずがないとわかっていながら、彼女が足を踏み出してしまうのが怖かった。彼女に聞こえない声で語りかけ、彼女に触れられない手で頬を撫でる。それに気づくように振り返る姿を見ては、その度に安堵した。彼女が息をしている。そこに表情はないけれど、存在を確かめられさえすればそれで良かった。いつか彼女が柔らかな日差しを浴びて笑顔になれる日が来たなら、そのとききっと、この世界は壊れるのだろう。 　不安定な世界と並行して、彼女の現実は流れていく。あくまでもこちらは彼女の人生の、多くてせいぜい三分の一ほどに過ぎない。けれど、その三分の一の存在が、彼女が現実で立ち止まっていることを物語っている。 　私もかつて、友人として彼女と同じ現実にいた。思い出すのは、坂道にある花を二人で数えながら歩いたこと。飾り気のないおにぎり屋さんが遊びに行くときの定番のお昼ご飯だったこと。いつか、彼女が言ったこと。 「あの世のほうが星に近いから、願いを聞いてもらいやすいんだよ」 　だから生きているうちは良い子にして、天国に行ったらたくさんわがままを言うのだ、と、今はない笑顔が浮かぶ。彼女が教えてくれたそれは、事実だったのかもしれない。けれど神様は、やっぱり私たち人間とは感覚が違うらしい。私の願いは「彼女にもう一度会いたい」という、ただそれだけだった。確かに、彼女の顔を見ることはできたけれど、彼女が私を見つけることはない。私はもうずっと、彼女の夢の中だけで吹く風なのだ。神様にとって、これが「会う」ということなのだろうか。それとも、見透かされているのだろうか。この世界の存在に救われているのが、本当は、私の方なのだと。

「今度、また転校するんだ」と彼は言った。親の都合で転校を繰り返している人だ。だから驚くことはないはずなのに、私は何も言い返せなかった。 　うちの家と低い生垣でしか分けられていない隣家に、彼と両親は去年の春に越してきた。そしてまるで昔からの習慣のように彼は毎朝、庭の花々に水をやった。急に現れた隣人を気まずく思う私に気づいていたのかいないのか、とにかく彼は声をかけてきた。 　彼は話し上手であり聞き上手で、すぐに良い友人になった。「君は育ちがいいというより、おじいちゃんって感じ」「それは良い誉め言葉だね」と軽口を叩いて笑い合うほどに。 　それから彼を好きになるまで、そう時間はかからなかった。この恋が実ってほしいと思ったことはない。ただ今の関係がずっと、なるべく長く続けばいいと私は健気にも考えていた。 　なのに目の前の彼は転校すると言う。いつもどこか寂しげに見えた、その微笑みを添えて。 「君にはこの庭を託したいところだったけど」 「いや、いくらお隣さんでも勝手に水はやれないよ」 　そう、だからさ、と彼は言って、いつの間にか摘んだらしいピンクと水色の小さなつぼみがついた花を私に向ける。 「枯れるまで、毎朝水を変えるだけだから」 　私はもう、首を横に振れない。彼の思いのほか明るい茶色の瞳から逃れたくて、「じゃあ」と手を伸ばした。 　彼の手と、触れてしまうかもしれなかった。そんなことになったらきっと忘れられなくなる。その感触をずっと、死ぬまで思い返してしまう。そんな呪いみたいなことは嫌だと思ったのに、彼は私の指先に触れることなく、その小さな花を渡してしまう。 　ありがとう、と私は礼を言う。どうか声が震えていませんように、瞳がいつになくうるんでいることがばれませんように、と祈りながら。彼の表情はわからないが、きっといつもどおり微笑んでいただろう。 　それからある夜、夢を見た。 　ひどい嵐がやってきて、町中が水に沈む夢だった。嵐が通り過ぎた淡い朝焼けの中、彼が乗るはずの電車はやってこなくて、線路は水底に揺らいでいた。「これじゃあ、どこにも行けないね」と私は彼に言った。彼はまた寂しげに笑って見せるけれど、私のほうがずっと寂しかった。 　そこで私は、ぱっと目を覚ます。 　朝方の外は薄っすらと明るく、ただ静かに雨が降っていた。嵐は来ていない。そして彼ももういない。彼がくれた小さな花だけが小瓶の中で咲いていて、私は泣いてしまいそうだった。

　わざわざ私の前に現れて「あなたはこうしたほうがいいよ」とアドバイスをしてくる人がいるけれど、私はまだ幸せをあきらめていない。 　それどころか、一瞬たりとも不幸を受け入れたことなんてないし、こう見えてそこそこ生きてきたのだ。 　雨上がり。街から離れて地平線には山が見える長い道。風に流された雲が夕日を見せつけてくる。 「ああもう話しかけてこないでよ！」 　思い切り、腹から声を出して叫んでしまったとき、時間だけが止まった。きれいでしょ、なんて風景が私をなぐさめてきているようで、余計にむしゃくしゃしたが、不思議と落ち着いてくる。 　てきとうな美容室でおまかせ、と言って切ってもらった髪を少しかきあげて、私を追いかけてきた人を見た。 「……今は少し感傷に浸りたいだけなんだ。ほっといてよ」 　正しい言葉なんて必要なくて、精一杯、理性によって体を支配した結果、こんなところにやってきたわけである。なんなら、見ないで欲しい姿だった。 「ねえ、それでも君は私を説得する？」 　男の子が肩で息をしている。私が好きだった男の子。明日から……今夜からどういう評価になるかはわからない。 　こんな気持ちだっていうのに、ネオンの街で流れているようなシティポップは止まらない。もちろんここは街なんかではなく、果ての田舎だ。果ての田舎で、男女が仲を拗らせただけにすぎない。 　主張が激しい踏切の音、安いビニール傘を風がなでる音、夕方を告げる黒いカラス。心地よいさざ波の音。 「ねえ邪魔しないでよ。そんな汚い声で叫んじゃって。今、一人になりたいってわからないの」 　叫んだのは私だっていうのに、相手に押し付けた。なんて醜いのだろう。 　だめだ、もう私は私では止められない。 　そう悟ったとき、ちゃんと時間が動き出した気がした。 「引き止めたいなら、ちゃんと引き止めて」 　自分勝手な言葉でもって相手を試す。そんな私がまた嫌いになったけれど、遠くまで澄んだ世界は私を許してくれそうだった。

　役所へいく前、最後に妻が寄りたがったのはかつて住んだアパートだった。 　いきつけのパン屋でも常連だった定食屋でもないことには驚いたけれど、彼女がその場所を選んだことは悲しいほど納得できた。十数年ぶりに降りた駅は再開発が進んで僕たちが暮らしていた頃の面影はほとんど残っておらず、アパートまでの坂道は記憶のなかよりもずっと長かった。僕たちは何度も休憩をとった。 　さっきまで妻は不自然なほど明るくふるまっていたのに、アパートを前にしてから急に黙りこんだ。 　住んでいた部屋のベランダで若い男女が煙草を吸っているのが見えた。やわらかな日差しを浴びながらふたりとも手すりに身体をあずけ、顔を見合わせ笑っている。耳をすませば笑い声さえ聴こえてきそうだった。 　僕たちにも世界にふたりきりだけ取り残されたような、とびきり甘い瞬間があって、たとえばベランダで月を見上げながら団子を食べたり、わずかばかり積もった雪を集めてだるまを作ったり、洗濯物を干しながら遠くに流れる川を眺めたりしていた。もしこのアパートでずっと暮らしていたなら、こうなっていなかったかもしれない。ふたりで暮らすには充分すぎるほどだったのに、やがて授かるはずの子どもにあわせて僕たちは住処を移した。疑わなかった。幸福が訪れるまで病院へ何度も何度も通い、ふたりの貯金をほとんど使い果たし、ふたりの心を限界まですり減らして、それでも僕たちのもとに子どもはやってこなかった。 　妻の手を握る。ふりほどくことも握り返すこともない指先は冷えきっている。 　ずっと抱いていた理想の家庭像を妻は捨てられなかった。子どもがいなくても以前の日々に戻れるはずなのに、僕たちに生まれた空白はもう埋まらなかった。 　妻はベランダのふたりに向かって大きく手をふる。「ちょっと」小声でたしなめるけれど彼女はまっすぐに彼らを見つめていた。ふたりも妻に気づいたのか、笑顔のまま手をふり返してくれる。それでも妻はやめなかった。恥ずかしくなって僕もささやかに手をふりはじめると、彼らの笑みが濃くなったのがぼんやりとわかった。 　急にまぶたの裏が焼けるように痛みだし、涙があふれる前に目をつむった。薄ぼんやりとした光のなかで妻のかすかなふるえだけがわかる。

　空はうっすら霞色。雨はいつの間にか上がっていて、水たまりに桜の花びらが揺れる。踏切が鳴り、通過する列車は影みたいだった。駅の方へ踏み出しかけ、手をつかまれた。 「駅へ行っちゃだめだ」 　振り向くと、ハルが立っていた。点滴にも呼吸器にも繋がれていないハルが。 　無口でいつも寂しげに笑っていたハル。触れられたのは初めてだった。ハルがそっと手をほどくと、花びらがはらはらこぼれた。 「さよならって言ったのに」 　いつかのように呟くハルに、 「またねって私は言ったよ」 　少しかがんで答える。大人になった私は、あの頃のままのハルを見下ろしてしまうから。 　次の桜を一緒に見よう。 　それがハルとの約束だった。病棟の中庭にあった大きな桜の木は、春にはフェンス越しの道路も空も淡色に染めた。 『夢で桜の木と話したよ』　 　あの日、薄目を開けてハルは言った。 『あいつ、咲く前に切られるんだって』 　道路へせり出した枝をバスの窓がこすっていった。まだ生きられるのに。願っても消えてゆく命、それでも生きようとする命を思い、私は咳込んだ。 『例えば残りの命を僕にくれたとして、木の寿命って何百年だろ。愛する人を見送り続ける人生に耐えられるかって、あいつ聞くんだ。それで……』 　ハルの意識は遠のいてゆき、約束を果たせないまま退院した私は、まっさらな高校の制服に身を包み、通学路の桜を一人で見た。 　もう咳込まなくなった胸の奥に、触れると痛む感情があった。 「君は迷い込んだだけ。次の列車が来る前に踏切を越えて。いつかまたここへ来た時は僕が見送る」 　踏切が鳴り始めた。一歩踏み出し、 「またね！」 　霞んでゆくハルへ叫ぶ。寂しげな笑顔がゆらゆら滲み、声は踏切の音にかき消された。 　次の瞬間、私は目覚めた。 　心電図の音がけたたましい病室。消毒液の匂いが鼻をつく。窓の外へ目をやると、けむるような夕日。あの中庭に、桜の木はもうなかった。 　脇見運転の車に跳ねられて、意識不明だったんだよ。見晴らしのいい道なのに。雨だったから……。手紙にお見舞い、色々な言葉や出来事が、目まぐるしく私を通り過ぎていった。 　それは、退院前日の夕暮れのこと。風に乗って花びらが舞い込み、シーツにこぼれた。 「桜なんてどこから……」 　回診の先生が不思議そうに窓の外を眺めたけれど、桜の咲く場所を私は知っている。薄桃色の花びらを集め、手の平でそっと包む。 　——またね

未来へ戻る？未来は進むものじゃない？両方向からの電車に、閉まったままの踏切で、それぞれの進行する未来について考えていた。電車が順に眼前を通過する。自然のミスト雑じりの風に震えるカットソーの胸元をつまむ。ダサかわちゃん。半年程前、突如、断捨離ごっこを始めた母が捨てようとしてたシャツ。母曰く昭和生まれ平成育ちで、母の平成初日を共に迎えたコらしい。私が着用し、レイワの空気を馴染ませる都度、コノコは古くなる。私が未来に進む度を未来度数とすれば、比例して、ダサかわちゃんの過去度数もあがる。ん？反比例？闇雲な思考は、事から事へ、テレビで見たボルダリングのように飛び移る。過去も未来も縦横無尽、世界クラスの選手も比じゃないペース。ひょいひょい行けるから、絶対超初心者コース。 ふと、炭酸の泡を思い浮かべたのは見上げた空がキレイだったから。キレイな空イコール炭酸の泡は未だに聴いてるアイドルの歌の歌詞の影響。色褪せないスタンダード。思考は飛び移る。で、炭酸の泡は上に昇る。未来へ進むなら、炭酸の泡を追いかければいいんだ。上や！上や！心でエセ関西弁を突き上げ、開いたままでいる傘を舞わす。「キレイな空だ。」雨だってとっくにやんでるやん。拙いエセや。電車はとっくに過ぎ去り、踏み切りも開いてるのに、歩き出さずに、ぼーっと立ち止まっていた。 この踏み切りは、先週向こうからあなたが女の子と歩いてきた踏み切り。ふとあなたと女の子が歩いてった方を振り向いてみた。先週の二人の姿が、小さくなっていく。ここから見えなくなる程、その先からはどんどん大きく見えてくるんだろうか。あなたと女の子の歩いていった未来。それはどうやら、私には過去のようだ。さあ、振り向き直して、私は私の未来へ戻ろう。はっ！未来へ戻るパターン…！ この世界をふわふわ、昨日から今日、今日から明日へ飛び移る。誰かと擦れ違うこともあれば、何もない日もある。現在は、ひたすら進み続け、その都度、私の未来度数も過去度数もあがる。コノコと一緒やん。ダサかわちゃんの裾をつまみ、くいっくいっと引っ張る。 「まじbroken」何かの歌の歌詞を呟いた。

何の変哲もない海辺の町・・・ だったのは今は昔、今この町は海に沈もうとしてる。 原因は判らない。 潮の流れが変わったのか・・ 地盤沈下か・・・ はたまた温暖化なのか・・・ 自治体も国もどっかの研究機関でもハッキリした事は判らないらしい。 もう少し時間が欲しいと言う研究機関を尻目に町の人達は好き勝手な憶測を喚き散らして最後に誰かのせいにして悦に入ってる・・ 町の人達だけでなく最近は議員や役場の職員までもがこの調子だ・・・ 役場では何度目になるかも判らない当ての無い対策会議 当ての無い憶測が飛び交い、その憶測を元に結論の出ない議論の様なモノを重ねていく 俺は町の青年会代表として出席しているが、毎回年寄りの感情的な憶測と愚痴を聞かされるのもウンザリする。 役場の同年代の職員も同じ気持ちなんだろうと職員席を見ると・・ 幼馴染の文子がこっちを見ていた。 あぁ、そう言えばアイツ職員だったっけ・・・ PM５時に近付き、意味のない対策会議が終わり帰ろうとすると文子が声を掛けて来た。 「これから時間有る？ 久しぶりにトンネル行ってみたいんだけど一緒に行かない？」 トンネルとは子供の頃よく行っていた浜辺に向かう途中にある防風林の道の事で、手前の踏切を越えると防風林がまるでトンネルの様に覆っていて その先の出口にキラキラ光る海が見える、俺たちが子供の頃一番気に入っていた場所だった。 「海、上がってるからもう無いんじゃないの？」 「それならそれでも良いから見て見たくない？」 懐かしい笑顔を向けながら言う。 まぁ予想通りと云うか・・・ 踏切の先に有った防風林は海に消え、踏切までも飲まれようとしている。 「見事に無くなっちゃったね。」 さみし気に眺めている文子に声を掛ける。 「まぁ、コレはコレで幻想的だから気に入ったわ。」 明るい声で答えてクルリと俺の方に向くと真顔になって 「私はこの変化を受け止めて進む。アンタはどうする？」 突然の問いかけに戸惑ってると・・・ 「多分、町よりも人の方が先に壊れるから早く決めた方が良いよ。」 その時、雲の切れ間から夕陽が差し込み彼女を照らした。 答えは前から決めて居たが、幻想的な情景を目の当たりにして覚悟も決まった。 真っ直ぐに見つめる彼女に向って答える。 「俺は・・・・・・」

朝6時30分。 突然の、初めてで、最後の呼び出し。 僕の吐く息は白く、まだ早いままだった。 「走ってきてくれたんだ」 氷った地面の上に彼女はいた。 冬の日の出。 初めて見る、光の色だった。 「きれいでしょ、光」 「……うん」 薄いピンク色のもやがかかった冬の空。 もやの向こうには新しい1日の始まりが迫っている。 夜中までの吹雪が嘘みたいだった。 「吹雪が止んだ夜の朝だけ、この色になるの。しらなかったでしょ」 明日僕は、この島を出る。 日本の北の、最果ての島だった。 親の仕事の都合で転校してきて、親の仕事の事情で出て行く。 昨日、彼女と喧嘩した。 この小さな島を分かりきった気でいる僕を、不甲斐なく別れを告げられない僕を、彼女は突き放した。 今日、結局学校では何も喋らなかった。 「もうさよならだよね、たぶん」 「そんなこと言うなよ」 「君はここには戻らないでしょ」 彼女の持っているビニール傘に溜まった雪が光で溶けて、水滴になり、 傘から落ちた。 踏切の向こう側に彼女は歩いて行く。 彼女と僕の間には線路で境ができた。 「私、おいてかれちゃうんだね」 線路のこちらと向こうでは、大人の事情と僕の弱さが横たわり、それを踏み越えれずにいた。 「連絡するよ」 という、僕の精一杯の抵抗を 「じゃあね」 と、彼女は遮った。 遠くなるビニール傘と彼女の背中しか 僕には見えない。 またね、と、彼女は言わなかった。

雲の上は不思議な場所が多い。ここもそうだった。雲の上なのに水があるし、電柱もあるし、踏切もある。 「やあ」 　彼女は踏切の前に立っては、ビニール傘越しに笑った。どうも、と返して、なにを言おうか悩んでいると、先に彼女が口を開いた。 「ここは潮風浜踏切。なんで潮風浜かっていうと、下から浜の潮風がずっと吹き込んでくるから。張っている水はその風のせいで溜まった、海水みたいなものだよ」 　まだなにも尋ねてないけれど、確かに気になっていたことだから、助かるといえばそうだ。 「でこの傘は、たまに雨が降ってきた時のためのものさ」 「雲の上なのに雨が降るんですか？」 「きみ、やっと喋ったね」 彼女は悪戯っぽく笑い「上には上がいるってこと」と歌うように言う。 「あなたはいつもここにいるんですか」 「そ。踏切が鳴り終わるの待ってるの」 　確かにさっきからずっと、踏切のサイレン音が鳴り続けている。いつになったら踏切のバーは降りるのだろう。 「電車が通るんですか」 「さあね。結局一回もバーが下がったのを見たことないから」 「渡っちゃえばいいじゃないですか」 「こんなに音が鳴ってるのに渡るのはちょっとね」 　彼女がどれだけここにいるのか知らないが、ぼくがいるこの時間だけでも結構なものだから、渡ってしまっても問題ない気がする。 「向こうには何があるんですか」 「行ったことないからなあ」 「なんで行きたいんですか」 「そうしないと散歩が終わらないんだ」 　不思議な人だな、と肩を竦める。でも、向こう側を見つめる顔は切なそうで、快活な喋り口には上らないなにか、抱えているものがあるのかなと推し量る。 「早く渡れるようにあるといいですね」 　彼女はちょっと驚いたように目を丸くして、すぐ笑った。 「うん、ありがとう」 　彼女に手を振って、僕は来た道を戻る。彼女はビニール傘をくるくると手の中で回しながら、見えなくなるまでぼくを見送ってくれた。

春先にこぼれたあなたの影を追いかける。 　2回目の新学期。桜時雨に雨模様。死に急ぐように花弁が散り散り、いつもの踏切には海が広がる。 　先の終わりも見えない途方に、あなたが笑んだことだけが懐かしい。あなたはいつも踏切の向こう側。異星からやってきたかのようにスラリと、美しく、そして電車ががなり通過する様をじっとりと睨んでいた。 　冬の裂くような季節を追って、桜もつぼむ当時。あなたは黄色と黒で彩る一線をくぐって、迫る電車の前に立った。カンカンカン！　わめく死があなたに迫る。私は、ビニール傘が風に攫われて、それから、水たまりの飛沫を足裏で乱暴にあげた。まだつぼみのそれがぼとほど路面に落ちて、迫る死に当然のように対峙するあなたの腕を、私、掴んで走った。 　誰もいない坂道を、喉から血の味がするくらいには無様に登っていく。うしろにあるあなたの気配に心臓は躍る。 　もつれた足が蹴つまずいて二人して冷めた地面に倒れてから、ようやく逃走劇は幕を下ろした。 　あなたはもたもたと身体を起こして、息を切らして地べたに這いつくばる私を一度見やった。私は息を整えるのに必死で、あなたの顔を見つめるだけ。なんてかっこわるい。 　それからあなたは、ヘタクソにへらりと笑んで、なにも言わずに、ゆらゆら私から遠ざかる。 　待って、なんて願いも口から出なかった。 　それから踏切の向こう側に、あなたは現れない。 　あの日布越しにふれたあなたの儚さだけがいまだ手のひらにある。 　電車が通過する。死に急ぐ花弁の舞うこと、舞うこと。 　あなたはもうここには現れない予感に、生ぬるくなった空気を吸い込んで、私はじっと、あなたがまた姿を表す今日の妄想をくりかえす。電車が私の前から去ったとき、あなたはあの日のぎこちない笑顔を浮かべて、桜に攫われそうになりながら、かろうじてやってくる。 　そうであればいいのにという願いは、春先に沈む私の影法師に落ちるだけだった。

春雷　花冷えの白 風が吹くたび 街がちぎれて 僕もパラレルに砕け散る午後 ねじれた指先で 時計の針を巻き戻す ぜんぶ未来に閉じこめて 海岸線を歩く 砂浜で錆びたハーモニカを拾う 波打ちぎわに腰かけた ぬるい憂鬱に どこまでも海が打ちよせてくる まるい水の呪い　星のつわぶき 壊した時計にみちていく影 あまりにも騒がしい雷の午後に ほら風が吹いて街がちぎれる きれぎれに射しこんだ 春の陽を浴びて ぜんぶしゃぼんのように 舞いあがるから 今日は僕もパラレルに割れるよ

「ごちそうさまでした」 さっきまで真っ青だった空に、両手を合わせる。 茜色に染まった空を見た人間たちは、じきに『春』が食べられたことに気が付くだろう。 『春』を喰べてしまった場所には、もう二度と青空が広がることはない。 「結構好きだったんだけどな、此処」 お腹は満たされたのに、心は空っぽだった。 だけど、後悔はない。 好きって気持ちだけではお腹は膨れないし、私たちは春を喰べないと生きていけないから。 もう少し此処に居たかったけれど、【化物狩り】が始まる前に去らなくては。 電車の時刻表を確認していると、背後から『聞き覚えのある声』というには聞きすぎた声が私を呼んだ。 「ハ……ル……？」 一瞬、傘でこのまま顔を隠し、しらんぷりして逃げてしまおうかと思ったけれど、仕方なく振り返る。 「そだよ」 今、一番合いたくなかった人だ。 彼は私をじっと見て、それから何も言わず、寂しそうに微笑む。 「ぼくに……聞きたいこと、あるんでしょ？」 なんで何も言わないの？ 全部知ってるくせに。 全部気が付いてるくせに。 私が『春』を喰べたことも。 『ハル』が『春』を喰べる化物だってことも。 「黙ってないで何とか言いなよ」 「きみが此処の春を食べたの？」 「うん」 「美味しかった？」 「え……？」 あまりに間の抜けた質問にぽかんと口を開いてしまう。 「あれ？　美味しくなかったの？」 「お、美味しかった……」 「そう、ならよかった」 私たちは全世界で化物として扱われ、正体がバレればすぐに処刑される存在だ。 それなのに……どうして彼は……。 「ぼくのこと、憎くないの？」 「うん、全く。そりゃ驚いたけど、別に俺はそこまで『春』が好きってわけでもないしね」 出会ったときから不思議な人間だと思っていたけれど、やっぱり彼は変わっている。 「あ、ハルのことは大好きだよ！　今のは『春』の話ね」 「ほんっと、変なひと」 「あははっ、よく言われる」 傷付かないように、気づかないようにしていた感情がぷつぷつと湧き上がり、張りぼてだった私の心がゆっくりと輪郭を持ち始める。 「例えばの噺、もし俺が今ここできみを処刑するって言ったら、きみは俺を憎む？」 私はゆっくり首を横に振る。 「つまりね、そういうこと」 「きみになら、殺されてもいいけど」 「例え噺だって言っただろ」 私たちは昨日までと変わらない、他愛もない会話に花を咲かせながら電車を待った。 青空の下広がる、次の『春』を探しに行くために。

私は科学者の父と二人で暮らしているのだが、五年前から父は家に篭ってなにかの装置を作っていた。 「これは海を凍らせる装置だ、新しい大陸間の移動手段になるだろう」 「くれぐれも、触るんじゃないぞ」 そう、父に強く言われていた。 ある日研究室に篭っている父に晩ご飯を届けにいったのだが、その時味噌汁を装置にこぼしてしまった。 その時、あ、終わった……と思った。 「おい！何やってるんだ！今すぐ装置から離れろ！」 父が凄まじい剣幕で声を上げる。 「お父さん、ごめんなさい」 「いいから早く装置から離れろ！」 次の瞬間、装置によって周辺のあらゆる熱量が吸収された。 父は冷却され、カピカピになっていた。 私が味噌汁をかけると、解凍されて元通りになった。 お父さん、冷凍食品かよ。 「ていうかなんで私は凍らなかったの？」 「温かいメシ食ったからじゃないのか？」 そんなことあってたまるか。 雪が降るかも、と思って傘を差し家から出ると、元々田園地帯であったそこは銀世界と化していた。 「近所の人はどうなったんだろう」 「凍ったのかな」 「まさかね……こたつにでも入っててホカホカしててくれ〜」 なにかとんでもないことをしでかしてしまった気がしたが、とりあえず家に帰って味噌汁を飲んだ。 テレビを付けると、どのチャンネルも砂嵐だった。

「いつかまた」 それが彼女の口癖だった。 いつかまた、この景色見に来ようね。 いつかまた、このお店来たいな。 いつかまた、こうやってみんなに会えたらいいね。 いつかまた・・・その言葉がこんなにも胸を締め付けると思っていなかった。 まだ少し肌寒さが残る3月中旬。 もう先は長くなかった。 「今日は少し調子がいいから」と、気分転換に二人で病院の屋上に向かった。 「外の空気吸うの久しぶりだなあ。今日天気よくて良かった。」 車いすに乗った彼女が、遠くを見つめながら微笑む。 「最近隣の病室に新しく男の子が入ってきてね、廊下で会うといつも挨拶してくれて、折り紙で作ったお花とかいっぱいくれるの！」 きっと治療で毎日苦しいはずなのに、僕の前ではずっと笑顔で話してくれる。 その笑顔が僕にとってはとても苦しくて、心の底から笑顔になることができずにいた。 余命宣告をされたあの日から僕は、彼女のためになることなら全部やってあげたかった。 でも、彼女はきっと自分の病気の重さを知っていて、僕に負担をかけまいと、「何もしなくていいよ」と言った。だからせめて、毎日彼女と顔を合わせたいと思った。 「もうすぐ桜の季節だね。・・・いつかまた、二人でお花見したいなあ。」 やわらかい風になびく彼女の髪と、空を見上げる彼女の横顔は、この世の何よりも美しかった。 「絶対行こう。お花見。」 そう言うと、彼女は僕のほうを見上げて、悲しそうな眼をしながら微笑んだ。 その日、夢を見た。 そこは、干潮の時にだけ現れることで有名な線路の前だった。 夕方の干潮時、雨が止んだことも忘れて傘をさしたままはしゃぐ彼女を、僕は後ろから眺めていた。 その時、来るはずのない列車が一両だけ音もなく現れ、彼女の目の前で止まり、ドアが開いた。 「乗っちゃだめだ」 僕は咄嗟にそう思った。 その列車に乗ってしまえば、彼女は二度と戻ってこないような気がした。 「乗らないの？」 彼女は僕のほうを見て、不思議そうに首をかしげる。 全力で止めたかった。でも、夢だからだろうか、声も出なければ足も動かなかった。 「先乗ってるね」 そう言って彼女は、一人で列車に乗り込んだ。 彼女だけを乗せた列車のドアは、他の誰も待つことなく静かに閉まり、その場から消えていった。 ひとり残されたこの空間に、どこからともなく現れた桜の花びらが降り注いだ。 もう少し、こっちの世界に居させてください。 僕はそう神に願った。 現実世界は今日も晴れている。

　2021年、夏。朱色と空色のグラデーションに包まれていく世界の中で、唐突に足を止めた彼女はくるりとこちらを振り返った。それと一緒に彼女のビニール傘もくるりと回った。 「ねえ、なんで人間は生きるんだろう」 　そこには先ほどまでの笑顔はなかった。彼女とは幼いころからの付き合いになるけれど、あれほどまでに感情を失った顔は初めて見た。 「楽しみを享受するため、とか？」 「うん、確かに、楽しいことを経験すれば、幸せになれるよね。現に私は、あっちゃんと一年半ぶりに会って、話して、すごく幸せだと思った」 　それまでにも彼女は時々面白い事を言い出したから、その時も今までと同じだろうと思った。でも、昼と夜の境目の世界で、雨も降っていないのにビニール傘を差すその姿に、妙な胸騒ぎがしたんだ。 「じゃあさ、その楽しみがないとしたら、何のために生きればいい？」 「……マイコは、楽しみが、ないの？」 　私が尋ねると彼女は口元だけで微かに笑った。 「あっちゃんと話すことは楽しいよ？　でも、それ以外にも楽しいことはあったはずなんだけど、いつの間にか、それが何なのか分からなくなっちゃった」 　彼女は再びくるっとこちらに背を向け、左手を空へ向けてぴん、と伸ばした。そして、器用にもその中指の上に傘の柄を立たせながら、彼女は続ける。 「勉強もするし、料理だってする。運動もするし、本も読む、あと絵だって描くの。映画やドラマ、アニメも観る。でもね、」 　気付けば毒々しいほどの赤が染め上げている空を、ビニール傘がふわりと飛んだ。それは日の光にきらりと光ったのち、すぐに地面へと落ちた。 「なーんにも楽しくないの。充実感が得られないっていうか」 　風に乱れた髪を気にする様子もなく、彼女はビニール傘を拾いに行く。 「私、勉強するためにここを離れて一人暮らしをしてるけど、いくら勉強してもそれが実を結ぶ光景がどうにも想像できない」 　私、どうすればいい？　先ほどのようにビニール傘を肩にかけ、こちらをじっと見つめる。その目はとても静か。むしろ何の揺らぎもないからこそ、その異常さを示しているようだった。 「もう少しだけ、頑張ってみようよ」 　私がなんとか言葉を振り絞ると、マイコはゆっくりと目を伏せた。しばらくすると、顔をあげ、うん、そうだねと目を細めた。それは夕日に目が眩んだようにも、あるいは何かをこらえているようにも見えた。 　あれ以来、マイコとは連絡がとれない。

止まない雨はない。 そう信じて生きてきた。 それでも降り続く、雨、雨、雨……。 外の音は雨じゃない！　何度も自分にそう言い聞かせた。 雨音をかき消すように、警報機の音が聴こえてくる……。 電車なんて、とっくに無くなってしまったのに。 私はトウカ、17歳。 2034年、東京で生まれた。 科学者の父と、７つ下の弟がいる。 去年の大洪水で、日本は未曾有の被害を受け、大陸の半分が浸水した。 降り続く雨に、死者、行方不明者は後を絶たず、私の母も犠牲になって未だ消息が判らない。 地下鉄は閉鎖され、国内外の通信システムも断たれて、時代が一気に遡ったように、 何をするにも、何処へ行くにも、時間が掛かるようになった。唯一の情報手段は、郵便や伝言板だった。 人々が国を再建する中で、土壌の侵食はとどまることを知らず、 この国の沈没は免れないことが、父の地震科学によって証明された。 情報は未公開だと、父が言った。 「お父さん、本当にこの国は終わりなの？」 「ああ、ムーやアトランティスのように沈んでしまう」 「嫌だ、僕死にたくない！」 「一緒に逃げよう」 「どうやって？」 「かみときの汽車に乗るんだ」 運命の日、私たちはその駅に向かった。 道行く人たちが、いつもと変わらない笑顔で挨拶を交わしてくれた。 もうすぐ、何もかも消えてしまう。 それなのに、私たちだけが助かろうとしている。 その後ろめたさに、顔を上げて歩くことが出来ずにいた。 本当にこれでいいの？　 「私行かない」 「お姉ちゃんまでいなくなっちゃ嫌だ！」 「時間がない、急ごう」 弟に泣きつかれて、私は父に従った。 私たちは、５時丁度の、かみときの汽車に乗るために歩き続けた。 けれど、かみときの汽車へ乗れば、それで私たちが救われると 科学者の父が、本気でそう思っているのだろうか？ 父に連れてこられた場所は、廃線した駅だった。 取り残された遮断機が、迷子のようにポツンと佇んでいた。 やっとわかった。父は、私と弟に最後の希望をくれたのだ。 「お父さん、本当はそんな汽車なんて無いんでしょ？」 父は答えてくれず、代わりに弟が私に言った。 「あるわけないよ、そんなもの」 　 楽天的な私は、恐怖から遠のく事ができたけど、 弟は直感で気付いていた。 やがて５時になった。 いつの間にか雨も止み、空が夕焼けに染まった。 こんな綺麗な空は、いつ以来だろう。 気が付くと、私は一人になっていた。 父と弟は、何処へ行ってしまったのだろう。 突然、警報機が鳴り出した！ 向こうから汽車がこっちへ向かってくる。 あれは、かみときの汽車なのだろうか？ 汽車の窓から、父と弟、そして、母が手を振っている。 思わずその場に立ちすくんだ。 「お母さん」

もし今日が最後だと分かっていたのなら、彼はどんな言葉をくれただろう。 恋人との別れ際、少女は思った。 ２０９５年後期に完成した時空列車。時間を旅できるそれは兼ねてより危惧されていた歴史の変換を理由に僅か半年で廃線となった。 しかし２２世紀を目前に記念として、２１世紀内をもう一度、２４時間だけ旅できることになった。 「でも突然訪ねて来たから驚いたよ。俺、夢でも見てんのかなって」 少女は不完全な足取りで彼の言葉を聞いていた。 五年前に出会った、この時代では二歳上の彼。 決して「また会えて嬉しい」そうは言ってくれない彼に微かなもどかしさを感じた。 重ねて、同じく言い出せない自分自身にも腹が立った。 「でも未来の人もやっと分かったんだね。一度仲良くなったらそう簡単に忘れられないって」 素直に好きだと伝えてくれれば良いのに。 少女はその苛立ちを水溜りへとぶつけた。 「……なんか機嫌悪い？　もしかして、つまらなかった……？」 「ううん……」 楽しかった。 箱型の通信機。 太ったテレビ。 紙の本。 レトロな街並み。 全て少女の生きる時代には無いものだったし、大切な人と変わりゆく時代を見る旅は至福の一時だった。 少女は浅く息を整えた。 春が溶かした残雪の霞。 ほどよく温くて、酸味が少ない食後の珈琲みたいな、心を落ち着かせるには丁度良い空気だった。 「凄く楽しかったよ」 人生で一番の笑みだった。それは心の底からでた本当の気持ちであったし、何より暗いお別れは嫌だった。 「そっか。それは良かった」 何も知らない彼の笑顔はとても無邪気なものだった。 少女は逃げる様に遮断機を越えた。 「……雨も降っていないのにどうして傘をさしているの？　そう何度も聞いてきたよね」 歪んだ空間から突如出現したレール。 少女は無景の上を走る列車を眺め呟いた。 「これが無いと死んじゃうんだ。私の時代はもうずっと、痛い雨が降り続けているから」 動揺した彼に、少女は傘を持たせた。 列車が停留し、風が花を揺らした。 「例えば、例えばだよ……？　雨が降って立ち尽くしている所に好きな人が傘を持って現れてくれた。それって凄く素敵なことじゃない？」 少女は列車に乗り込んだ。 「また……会おうね」 列車が出発し彼の縺れた表情が消えていく。 好きだと叫んでくれているのだろうか。 あれだけ望んだ言葉は既に聞こえず時は加速した。 視界がゆらゆら揺れているのはきっと時空が歪んだせいだ。 きっと、そのはずだった……。