僕にはわからないのだけど、とスマホを耳に当てて言う。 「君のように特別な友達を持っていないで、みんなどうして平気でいられるんだろう」 なにそれ、と君は耳元で笑う。 でも君は決して、スマホの向こう側にはいない。 君はいつだって、誰よりもそばで僕に寄り添い続けてくれるから。 これまで僕と君が離れたことは、ひと時だってなかった。 赤ん坊のときは一緒に泣いてくれたし、幼稚園のときは友達のいない僕とずっと遊んでくれた。 小学校にあがって勉強で困ったときには、答えをすぐさま教えてくれた。 喧嘩をしたときはすぐに仲直りしたし、他の子にいじめられたときは君がそいつの悪口を言ってなぐさめてくれた。 「君さえ許してくれたら、世界中の人間に知らせたいのに。君がいかに意地悪で、親切で、賢い人かを」 本当、馬鹿なんだから、と君は優しく静かに言う。 小さな頃はよくわかっていなくて、誰でも君のことを話してしまった。 気味悪がられたり不安がられる理由がわからなくて、でもそれでいいと僕は思っていた。 だけど君のほうが僕よりもずっと大人だったから、いつものそっけない声で言った。 私の存在を他人に知らせなくていい、あなたが知ってくれさえいればいい、と。 それから僕らは、人前で話さなくなった。 スマホで電話するふりをしたりして、最初は少し楽しかったけど、すぐに寂しくなった。 だから僕らは、住んでるアパートの屋上へ行くようになった。 ヘッドフォンをつけて好きな音楽を聴きながら、いつまでもふたりで話すのだ。 僕らは永遠だと、信じていた。 でも中学に入った頃から、おかしくなった。 まるで僕の耳が遠くなったみたいに、少しずつ、君の声は遠のいた。 僕だけが慌てて、君だけは冷静だった。 もう終わりってことだよ、と。 君は決して泣いたりしない。僕は君が泣いたところを、見たことない。 「君のこと、まだ何も知らないのに」 もうほとんど聞こえない君の声に、僕は未練がましくすがってしまう。 「どんな瞳の色か、髪の色か、肌の色か、何も知らないんだよ」 君は落ち着いて言う。 あなたが見てきた綺麗な色が、私の色だよ、と。 そんなことを言われて、僕の脳裏には走馬灯みたいに色とりどりが流れて、淡く溶けてゆく。 たしかにどれも、すべてが、君の色だった。 「きっと馬鹿だって言われるけど、言わせてよ」 僕は言う。 「君はね、世界でいちばんきれいだよ」 でも、君の声はもう、聞こえない。 さよなら、僕の友達。

「たとえ明日世界が滅びても、今日僕はリンゴの木を植える。僕がここに来た理由だよ」 「なんで私ここに居るんだっけ？　廃墟ビルの屋上だよね？」 「君は車の中でウトウトして眠りについた。ここは夢の世界なんだ」 「私、転校先に引っ越す最中だった」 「そう。僕はトモキっていうんだ」 「それにしても静かだね」 「河の水面に風景が映し出される現象。ここは水鏡の世界なんだ」 「水面へ映る方に居るの？」 「空と宇宙の間に河が流れてるんだ。その河が君の街を丸ごと映し出している」 無造作に立ち並ぶ建物も木々も逆さまに広がる。 「今日で世界は終わるんだ」 「何冗談言っちゃってんの？　こんなに平和じゃん」 「だって君は夢から醒める」 「そっか。トモキ君はどうなるの？」 「消えてなくなるよ。残念ながら」 「そんな……。そんなの嫌だよ」 トモキ君は俯く私の頭にそっとヘッドフォンを乗せた。 「この曲……懐かしい。どこで聞いたかな？　とにかく大切で大好きな曲だったはず」 生温いジュースの炭酸が弾ける。 無意識が自然と流す通り雨の様な泪。ゆっくりと眼を醒ませば、真っ白な天井。医者はそれを簡単に奇跡と呼んだ。 産み落とされた世界は車内ではなく、病院のベッド。私の腕には赤い血が送られている。その管を辿れば隣のベッドへ寝転がる君と繋がっていた。 「トモキ君？」 「木本くんだよ。命の恩人だぞ？」 「引越しの車中、廃墟ビルの道でトラックに正面衝突されたのよ」 両親が私へ何かを必死に伝えている。 私は意識不明の重体。多量の輸血が必要だった。そこへ鉢合わせたのが、適合する血液を持つ木本君。 ただ木本君には秘密があった。身体が生まれつき弱く、多量に輸血などしたらそれこそ生死に関わる。 トモキ君の本名は木本君。水鏡の世界で出逢ったから名前を逆さから呼んでいたのか。 ようやく思い出した。木本君は引越しの多かった私が小学一年生の頃、数ヶ月だけ居た学校で同じクラスだった。お別れの時にくれたのが、あの曲のCD。私の初恋の人だ。 引っ越したらもう会えないと知っていた。子供にはそれを覆す程の力もなかった。夏休みを前にした七月八日の事。 水鏡の世界は夢の中の世界ではなかったんだ。きっと死後の世界。人は命の果てで星になるというが今日は七月七日。水鏡を作る河とはそういう事か。 私の心臓は真っ赤なリンゴの様だった。

　最後に残ったのは私だけ、だから私は私に話し掛ける――紅に染まる街並みを見下ろしながら、あたしは何度この歌声に救われたことだろう。ボカロのラップは好きじゃなかった。やっぱりフロウがないっていうか、人工的な声で、歪んでて。でもその歪みがまた人を惹き付けもするのだろう。何故かあたしはこの曲だけは初めて聴いた時から耳を離れなかった。いつからか、放課後に一人校舎の屋上に上ってヘッドフォンでこの曲を聴くのが日課になった。もしも世界にあたししか居ないなら、やっぱりあたしはあたしに話し掛けるのだろうか。その世界であたしは今より退屈しないで済むだろうか。 「あ、この曲知ってる」 　突如、耳許が涼しくなった。驚いて振り向くと彼女はあたしのヘッドフォンを片耳に当てていた。「好きなの？」 「え、誰？　返してよ、それあたしの」 「いいじゃん、ちょっと貸してよ。てかウチ、ボカロよりもラップ上手いよ？」 　それがリエちゃんとの出会いだった。自分は全然なのに、だけど真っ直ぐに棚引く飛行機雲みたいな愚直さ、それだけが持つ清潔さにあたしは憧れた。潔癖だったのかも知れない。その所為なのか、それで結局、あたしは一人でこの世界に残された。 〈フィメールだろうがMCバトル　肉も野菜も食うヘルシーな僕〉という男ラッパーのありきたりな挑発に対して、〈勘違いすんなよアンタが料理　されてる方教えるウチこそが教師〉という見事なパンチラインを返して勝利したリエちゃんにあたしは魅了されてしまった。今やスマホさえあれば誰だってアバターに受肉できるし、どんな歌声だって思いのままだ。それでもリエちゃんが自分の手にマイクを握ってMCバトルに臨んだ理由をあたしは聞けず終いだった。 「ねえ、何であの時ここに来たの？」 　リエちゃんと出会った屋上で、あの時のように街を見下ろす。けれどあの時と違って街並みはただ黒く染まってゆく。人の営みを示す明りは灯らない。当然、返事をくれる人も居ない。どうやら人類は私を残してどこかへ消えてしまったようなのだ。何でかなんて知る由もない。それが悲しいのかも分からない。でも、あたしはやっぱりあたしと話しててもつまらない。ヘッドフォンを捨てて呟いてみる。もしかしたら「へったくそ」って、いきなり後ろから声を掛けられるかも知れないから。 「勘違いすんなよアンタが料理、されてる方教えるウチこそが教師」

　あなたの夢はもうみない。 　目がさめるたびに記憶が波打ち、まばゆい懐かしさに目がくらんで立つこともできなくなるほどだったけれど、夏が終わり秋がやってきて、冬が深まり春が訪れ、やがてまた夏が巡ってくる頃にはめっきり現れなくなっていた。それでもたまに、あなただけがいない夢はみる。 　どこへゆくにも手を繋がなかった。 　商店街でも映画館でも海岸沿いでも、私たちはまったく同じ歩幅だったから、必要ないと私は思いこんでいた。 　夢のなかで、あなたがいない駅のホームを、独立洗面台を、ライブハウスをひとりで歩く。一緒にすごしたときと同じざわめきがあり、熱気があり、色彩があるのに、あなたがいるはずのところは空洞だった。 夢の終わりはいつも決まっている。ふたりで最後に旅した小さな町にいて、私はきっとあの日と同じように銭湯へいった帰りだ。天国みたいだね。かつて、あなたはステンドグラスに指先をくっつけて目を細めた。 　私はあなたがいるはずの空洞に手を重ねて、そうだね、と答える。

「どう思ってるの？」 聞きたくなんてなかった。 答えはわかってたから。 しかもその答えは、 きっと私は望んでいないもの。 だから悩んだんだ。 聞く。 聞かない。 きく。 きかない。 聞きたくなんて、なかったよ。 でもね、 わたしのためには、 聞かなきゃいけないと思ったの。 たくすよ、わたし 私はきっと大丈夫。

「こんなはずじゃなかったのにな。」 何度思っただろう。 恋焦がれていた文化祭も 夢みていた卒業旅行も、 憧れていた社会人生活も 全部、ぜんぶ、大きくカタチがかわってしまった。 自分のために、みんなのために、マスクをしないといけない。 自分のために、みんなのために、友達と会うのは控えないといけない。 しんどいよ。つかれたよ。さみしいよ。 そう言葉をもらしても、周りには誰もいないの。 でも、 わかってもいるんだ。 きっと誰かが、この一瞬も戦ってくれている。 だからもう少し、 私も頑張らなきゃいけない。 わかってる。 わかってるよ。 だからここで、 誰もいないここで、ひと息はつかせて。 ああ、もう炭酸がない。 ひとりだと飲みきれなかったんだ

この屋上にはナオとよく来ていた。 あいつはいつも絵を描いていて、俺は横で煙草をふかしながら、あの曲のここがすごいとか変わり者の教授の真似とか、笑わせて邪魔をするのが日課だった。 でもあいつが別の日常を送るようになって、俺もここに来なくなった。 日が傾き始めている。 何やってんだ俺。 やっぱり帰ろう。 突然屋上のドアがギィと音を立てて開いた。 小柄な女性が出てきて軽やかな足取りで屋上の端に腰を下ろす。 座った拍子にポケットから紙切れが落ちた。 俺にはまだ気づかない。 彼女は低いビル街を見渡して横にコーラのボトルをトンと置いた。 指で四角を作って空にかざしている。 あれ、あの仕草ーーー 「あ、あの」 俺の声に彼女はビクッと肩を上げ振り返る。 「紙落ちましたよ」「え、あ」 彼女は立ち上がり紙を拾った。 そして軽く会釈をすると、まじまじと俺を見た。 「ミク君、でしょ」 見覚えのある顔。でも、なぜ？ 「あ、ごめんごめん。茜って言います。ナオの姉です。びっくりしたよね」 金色に染まった西の空が眩しい。 「ナオ、よく話してたのミク君のこと。この爺ちゃんのビルの屋上も『教えたのはミクだけ』って言ってたし」 突然すぎて、なんて応えればいい。 「俺も…お姉さんの話よく聞いてました」 彼女はへへ、とはにかむ。 あ、ナオだ。笑う時細くなる目。 「あの子、顔つきも描く絵もどんどん変わってったよ、ミク君に会ってから」 懐かしそうに笑いかけてくる。 そうだったかな。あいつの顔、あいつの絵。 「奨学金獲ってイギリスなんてね。不思議だけどわかるっていうか」 うん、と俺は頷いた。 「あの、ナオが賞とった夕日の絵。ここで毎日描いてたんです」 「へえ」と茜の目が輝く。 ナオが描く眩しい夕日の絵。 見るたびに光を増していくようだった。 その瞬間、空が一気にオレンジ色に染まり出した。 思わず2人とも夕日に顔を向ける。 茜は宝物を見つけたような表情だ。 「私、ちょっと行ってくる」 「え？」 「旅にでます。へへ、ミク君も、ね」 茜はおどけながらヘッドホンで耳を覆う。 そして夕日に向かって座り直すと穏やかな表情に戻った。 ちょっと行ってくるから。 あの時、逆光でよく見えなかったナオの顔。 俺も少し離れた場所に座って夕暮れの街を見渡してみる。 煙草に火をつけると頭の中であの曲が流れだした。 そう、この曲のここがすごいんだって。 深く吸い込んで吐き出した煙が空に溶ける。 目の前では水色とオレンジ色が境界を変え続ける。

2050年東京。僕はアサ。もうすぐ高校を卒業する。春からどうするかは何も決まってない。経済は相変わらず停滞中。優秀な奴等は海外へ。僕は田舎で農業でもしたいけど、そんな甘い世界じゃない。裕福とは程遠い両親。僕も早く仕事を見つけたい。けどやりたいこともなく心ばかり焦る。真面目にやってきたのに、どこで道を間違えた？いや、本当は最初から決まってた。自由な様で僕の手には追えないことばかり。もがいてもがいて遠回りして、また振り出しに戻る。生まれ落ちた時にレールの上にいない奴は、一生乗れないまま。そうなんだろ？ メイとは、友人の紹介で出会った。僕とは全然違う恵まれた家庭に育った人。僕とは絡むことがない世界の人。でも目があった瞬間、笑った。僕の下らない話が面白い、ってコロコロ笑う。こんなささくれた惨めな僕を、見つけてくれた。乾いた心に、水が染み込む音がした。 メイは、僕の1つ年上。かわいくて賢くて何一つ欠点などない。けど足が悪いのか、片足を引き摺って少しゆっくり歩く。理由は知らないけど彼女の明るさはそんなことを忘れさせる。そんなメイは、今あることに奮闘してる。最近の東京はホームレスの子供達が増えていて、メイは、そんな子供達に寄り添える団体を作るんだという。僕はそんな彼女の存在が嬉しかった。世間は、自分さえ良ければ他人の痛みなど見えない、目がある様でない奴等ばかり。でも今、目の前に、他人の痛みを見つめ、それを癒そうとする子がいた。 空虚で広大な平行線の間に、メイを見つけた。いつまでも交わるはずなどないと思っていた平行線は、繋ごうとする優しさと意志が集まれば、どこかで交わるのだろうか。こんな僕でも、誰かの笑顔のために、できることがあるのかもしれない。 昨夜はメイの仕事を手伝った。頑張っても上手く行かない人がいることはボクも知ってる。そんな人達の力になりたいし何よりメイを応援したい。 気づいたらもう朝。メイと僕はオフィスの屋上へ上がった。メイは座って、子供みたいに足を空にブラブラさせて。小さなビルの屋上からは、オリンピックの頃に作られたという建物群が見える。廃墟のようにも見える僕たちの街は、朝焼けに包まれて、これからまた生まれ変われるのだろうか。 オレンジ色の光を浴びて「音楽があれば、どんな世界も美しいね。」って笑うメイ。メイが見つめる先を、僕も一緒に見たい。このパラレルの先を。

2030年、東京。僕はリオ。もうすぐ中学を卒業するはずの15歳。なぜ「はず」かと言うと中学には通ってないから。世間で言う不登校ってやつ。勉強が嫌いとかじゃない。敢えて言わないけど理由がある。でも「みんな違っていい」なんてよく言う割に、人と違うことは許されない社会。周囲からは変な奴って言われる。母さんも地元じゃ浮いてる。けどいつもボクに言う。「あなたが笑顔でいてくれたらいい。」だけど同世代の友人は誰もいない。孤独。僕らは町中の皆から、白い目で見られてる。 ネネに会ったのは、毎週金曜に児童養護施設「ひまわり」でやってる歌ボランティアの会。すごく歌が上手いのに気さくで、子供達のリクエストに答えて時間ギリギリまで歌う。みんなからは「ねーね」って慕われてる。 僕は歌が苦手なのに、母さんの勧めで渋々ここに来てた。でもネネを見てたら、歌が好きになってた。「歌、どうしたら上手くなる？」思い切って話しかけた。ネネは「リオの歌はそのままで十分！」って笑った。褒められたことも、同世代の子に笑顔を見せてもらえたのも、初めてだった。うれしくて、ドキドキした。 帰る支度をしていたら、コツンと何か足に当たった。白い杖。「ねぇ、屋上で夕焼け見ない？」ってネネが言う。ネネは、目の視力が弱い。普段はそんなこと、全然気にさせない。でも日が暮れると見えづらくて杖を使う。ネネに腕を掴んでもらい、屋上へ。「危ないよ」って言うのに、無邪気に端っこに座って夕焼けを見てる。 「僕みたいな奴と仲良くして平気？学校も行かない変な奴。」って言ったら、「あはは！」って笑う。「それが？リオは私ができないことができて羨ましい。でも私も、歌を歌う。できないことは、できることの裏返し。ここの子供達は、私の歌を求めてくれる。まるで愛を求めるみたいに。それだけで私はすごく嬉しい。死んでもいいくらい。ね？私も、ヘン？」おどけて笑った。 うまく言葉にできない感動が心を揺らした。他者への無関心で埋め尽くされた、平行線の間の広大な闇。僕は、その平行線をただ眺めていたのか。僕にだって、誰かの笑顔のために、何かできることが、あるんじゃないか。 ヘッドホンを耳に当て「こんな風に歌いたい。」と夕焼けに目を細めるネネ。 オレンジ色に染まる世界は、彼女の目にどんな風に映るのか。僕もネネと一緒に見たい。この平行線の先で交わる、光溢れる世界を。

　卒業旅行は、国内の島に行くことにした。海外に行くよりも安上がりだし、いつものメンバーと一緒なら、気を遣うこともない。正直、どこに行こうが、何をしようが、楽しくなることは分かっていた。 　春から社会人になる私たちは、「会社」というものにひどく怯えていた。毎日遅くまで残業し、土日も働く。まともに休めやしない。海外はおろか、国内のちょっとした旅行や季節のイベントすらも、どうせ楽しめない。本気でそう思っていた。 　だから文字通り、「死ぬほど遊ぶ」ことにした。バカな頭で、考えつく限りの青春をこの卒業旅行に詰め込んだ。 　海、砂浜でのBBQ、花火、サイクリング、ドライブ、そしてアルコール… 　でも、このプランは欠陥だらけだった。どのレジャーも季節外れだし、有名なテーマパーにも行けてないし、何よりあいつが来ていない。 　でも、そんなこともう、どうでもよかった。毎日、遊んで、飲んで、寝不足でふらふらのまま旅行を満喫した。 　だけど、終わりの日が近づくにつれて、だんだんと、みんなの顔つきが変わっていった。 　社会人になれば、きっと地方に飛ばされるやつもいるだろうし、今は信じられないけど、結婚して子どももできるかもしれない。そしたら、もう、今の私たちのようにはいられない… 　夜空の下の砂浜で、炭や花火の燃え殻を片付けながら、みんなで缶チューハイをあおる。 海の近くは、さすがに夜になると寒い。だんだんと、みんなの口数も少なくなっていった。なんとなく、私が口火を切った。 「別に…いいんだけどさ、都会育ちの人が、都会の競争に疲れて、地方に移住するっていうのあるじゃん？あれさ…なんか違う気がするんだよね。その人たちはさ、好きな田舎に行けるんだよなぁって。きれいな田舎に行けるのよ。田舎だけど、田舎臭くないところに行けるのよ」 さみしい潮風が通り抜ける。 「この島も、きれいな田舎だよね」 私は海岸沿いから、宿に続く通りを眺める。 「私の田舎も、こんなふうに海が近くてさ、潮風の匂いを感じられるところだったら…出てこなかっただろうなぁ、東京には」 　私はゆっくりとうつむく。 「そういえば、あいつも島育ちだったね」 　休みの日になると朝早く起きて、私はいつもここに来る。街の中でひときわ高い、とあるビルの屋上。 「やっぱり、ここからじゃ海、見えないよ」 あいつがよく口ずさんでいた曲が、ヘッドフォンから流れる。 ♪〜「波の音を思い出として持つ人と海に…」

一日の中で、どれくらいの時間を自分のためだけに使えていますか？ 心をリセットできる瞬間はありますか？ 私は毎日夕方にビルの屋上で、夕日を見つめながら、お気に入りの音楽を聴きます。 この時間が、この瞬間が、とってもとっても大切なのです。 何もうまくいかなかった日や落ち込んだ日、つらいことがあった日。 夕方にビルの屋上で、夕日を見つめながら、お気に入りの音楽を聴くのです。 そうすると、何だか今日あったことすべてがちっぽけに思えて、心がスッキリするのです。 もちろん、心に空いた穴が大きすぎたり、突き刺さった刃が抜けない時もあります。 そんな時は、パラレルワールドにいるもう一人の自分にとても良いことが起こったり、嬉しい出来事が重なったんだと思うようにしています。 だから、こっちの世界の私は今日はしんどかったんだなーって思うようにしたりして。 学校や仕事や家事や育児… 忙しい日々の中で、自分のためだけの時間を、心をリセットできる瞬間を見つけることが難しい方も多くいると思います。 そんなあなたに知ってほしい歌があります。 私が毎日ビルの屋上で聴いている歌。 まだ誰も知らない、私しか知らない歌。 この歌を聴くと、何だかとても癒されるのです。 うまく言えないけど、優しいパワーがあるっていうのかな。 会いたい人には会えないし、顔も名前も知らない人に傷つけられる時代。 何もかもを抱え込んで、弱音を吐かず、必死に前に進もうとするあなたはかっこいいです。 だけど、時には泣いたっていいのです。 苦しいって叫んだっていいのです。 後悔したり、立ち止まってもいいのです。 毎日を頑張るあなたにこの歌を送ります。 電車に乗っている時、家事をしている時… 一日の中のたった数分だけでも、この歌であなたの心が癒されることを願っています。 今日も夕日が綺麗です。

2220年東京。僕はアオ。18歳。以前この辺りは日本という小さな国だった。今は国という概念はない。地球は異星人にほぼ支配されてる。彼等は10年ほど前、地球に蔓延した疫病を退治する救世主として突如現れた。特効薬で皆が喜んだ。でも結果的に奴等は僕らの地球を奪いつつある。200年前は77億人もいた人間は、今は10億人。疫病で30億人に減り、その後も減る一方。多くの産業は彼らの技術で自動化され人間には仕事が無い。仕事を失い異星人を嫌う多くの人間は、他星へ脱出して行った。 他星の暮らしがどんなか知らないが、僕は地球で生きる道を選んだ。春の桜、夏の甘い香、秋の紅葉、冬の落ち葉。家族との思い出がつまった街を捨てられなかった。それと僕は、歌を歌う。異星人にはアーティストがいない。彼等は表現することができない。地球人アーティストは彼等に優遇され、結構稼げる。地球に残った人間の役割は、アーティストとして死ぬまで表現し続けることだ。 夕暮時は、絶望を感じる。このまま地球が人間からジリジリと奪われるのを眺めながら死ぬのか？ 仕事帰り、いつもの公園の片隅で夕焼けに照らされて泣いてる子。赤毛だ。異星人？　異星人の見た目は人間とほぼ同じ。けど目の色や髪の毛が赤く輝くからすぐわかる。普段の生活では、人間と交わることはほぼない。宇宙船を住みかにしてるから。思いきって「どうしたの？」と声をかけた。 その子は「リリ」と名乗った。この星に来て数ヶ月。先日、初めて人間の女の子の「歌」を聴いた。そしてその美しさの虜になった。「あの子の歌を、もう一度聞きたい。友達になるの。」両親は「生きる世界が違う。人間は地球を壊してきた。我々が地球を救った。」メイは虚無感に襲われた。この地球上の、素晴らしい音楽、絵、物語、寂し気な廃墟群。人間が生み出す全てが好き。美しいものを生み出せない私に、一体どんな価値がある？「私も歌ってみたい。」真っ直ぐに言うリリ。 決して交わることはない平行線。その間を埋め尽くす広大な闇。そこに針の先程の小さな風穴が開いた気がした。僕は反射的に言った。「その子のこと、一緒に探そうか？」リリはヘッドホンを外し、僕を見つめ笑った。 小さな一歩でもいい。いやきっと無理だ。でもそれでもいい。僕は見てみたい。この平行線が、いつかずっと先で交わるかもしれない未来を。僕らの輝く地球を。

　ただ幸せに、それだけを願ってきた。 　幸せに、傷つかないで、傷つけられないで、生きていって欲しい。 　臆病な私は、ただ、それだけを祈っていた。 　妊娠７ヶ月、早産で産まれた娘は、脳性麻痺により、左側の足に麻痺が残った。 　幼稚園も、小学校も、目立ったいじめはなく、楽しく過ごしている様には見えた。 　母の方が、他人の過度な親切や、ちょっとした言葉にも、いちいち傷ついていた事が多かった。 　娘が「普通」でないことを指摘されているような気がして、娘の将来を思い描き、不安になり、一人、涙にくれた夜も数えきれない。 　 　中学生になり、多感な時期にさしかかった娘は、私の前ではいつも笑っていたが、私は知っている。 　近所の高台の公園の一角に腰掛けて、沈み行く夕陽を物憂げな表情で、よく眺めているのだ。 　 　夏休みも終わりかけの、八月の早朝。 　町内ラジオ体操の役員の為に、早起きした私は娘の部屋を軽く覗いた。 　まだ寝ているはずの娘の姿がなく、あたりを見渡したが気配がない。 　ラジオ体操に、早めに出かけたのだろうか。 　母としては、普段あまり付き合いのない人から時折感じる、同情のような哀れみのような視線が居心地悪く、参加しなくてもよいと言ったのだが。 　早めに家を出ると、娘は既にそこにいた。 　いつもの一角に腰を下ろし、朝焼けの空を眺めていた。 　胸を掴まれたような気持ちになり、近づいてそっと肩を叩いた。 　 　振り向いた娘は、私が声をかけるより先に口を開いた。 「この間、部活の先輩に告白したんだけど、ふられちゃったんだ。」 　こみあげてくるものがあり、涙がこぼれそうになった。 　それは、私のせいだろうか。 　そんな私の表情に気づいたのか、気づいてないのか、娘は笑いながら言った。 「先輩、すっごくモテるのよ。断られちゃったけど、ありがとうって言ってくれて。告白して良かったよ！」 　 　その力強い笑顔は、幼い頃と同じ、向日葵のようなまっすぐな明るさを放っていた。 　 　その時、私はやっと気づいた。 　私は、ただ、ただ、不安な中で子育てをしてきたけれど、娘は、何一つ悲観していなかったのだ。 　年頃の娘として、当たり前に恋をして傷ついただけなのだ。 　その小さな手を握りしめ、祈る様に「幸」と名付けたその名前の通り、自分で幸せを見つけていけるのだろう。 　もう、とっくに、手を離して大丈夫だったんだね。 　 　朝日に目を細めた。 　私も、強くなろう。卑下する事なく、悲観する事なく、前だけを向いて歩いていけるように。 　

「どうして、あの時声をかけられなかったのだろう……？」 夕日を見るとそればかりを思い出す。 普段はあまりしゃべらないタイプの彼。 映画の話になると、彼は流暢に話し始めた。 熱い眼差しと魂のこもった言葉……。 そんな彼に私は惹かれていた。 つるんでいるグループが違かったから、彼とは話す機会がほとんどなかった。 でも、私は気付いたらいつも彼のことばかりを見ていた。 私は彼の話を盗み聞きして、話していた映画を一人で観に行くようになった。 彼がオススメする映画はどれも面白くて夢中になった。 映画自体を好きになった。 彼と映画の感想を話し合いたい。そう思ってもどうしても彼に話しかけることができなかった。 ある日、映画館で前の方に座っている彼を見つけた。 「映画が終わったら話しかけよう……」 私はドキドキして映画に集中できなかった。 カウントダウンのようにスタッフロールが流れる。 客席に明かりが灯り、観客たちがゾロゾロと退室していく。 そして、彼も……。 私は彼を追うことができなかった。 映画館を出るとまぶしいほどに夕日が輝いていた……。 結局、彼に話しかけることができないまま高校を卒業した。 彼は大学に進学し、私は映画の専門学校に入学した。 私は映画監督になることが夢になっていた。 人づてに彼が映画サークルに入っていることを知った。 いつか映画の現場で彼に再会できたらいいな。 そのときは彼に伝えたい。 「映画の面白さを教えてくれてありがとう」と。 そして、 「好きでした」と……。

小さな猫が駆けていく 太陽の白いあくびに 風が吹くたび花がひらいて 光りはじめた春の憂鬱 空は脈打ってミルクみたいだ 三月の焼けた歩道に立ちつくす ここにひとりで息づいている ねえ僕は海を知ってる はるかな星のまどろみに揺れる 君の夢みる雨を知ってる 野原で小鳥がつぶやいている むし暑い春の憂鬱に 張りつめた空をかきまぜる 太陽の白い車輪に轢かれ 花は焼けこげてダイヤみたいだ 風が吹くたび底光りする 三月の騒がしい野原に横たわり ひとつ手紙をしたためてみる 駆けまわる仔猫の爪に蹴散らされて 小鳥たちが波打って舞いあがる どこまでも高く渦を描きながら はるかな星にのびていく 午後の透明な陽だまりの底で僕は 青くひらかれてまどろんでいく 手紙を握りしめ丸くなって眠りに落ち 萌えいづる幼き恋の心まかせに くすぐったい春の憂鬱に揺れる

やぁ、きみ。ひさしぶりだね。ふふ、ずいぶんとひどい顔色だなあ。え、そんなことはない？　はは。なるほど、じゃあそういうことにしておこう。 　ん、もちろん隣に座ってくれて構わないよ。君はイヤフォンを持ってるかい？　有線のやつ……そう、それだ。せっかくだし、この曲を半分ずつにして聞こう。おすそわけってやつだよ。ぼくのヘッドフォンはしまうからね。 　いやあ、それにしても、だ。眺める景色はなにも変わらないけれど、そこに生きる人達はずいぶん変わっちゃったんだなあ。でもねえ、思うんだよ。変わらない世界なんてどこにもなかった。ぼくたちがただ、それに気づいてなくて、いまさらになって分かっちゃった、ってだけでね。 　だってほら、女なのに、ぼくっていうのもおかしな話だって、昔はよく言われていたけど、いまじゃあ別に変な話じゃないだろ。これだって変わったってことさ。でもぼくたちは生きているし、生きていかなくちゃあいけない。 　今の景色が怖いかい。怖いだろう。それに疲れちゃうよね。そりゃそうさ。変わるときって、いろんな声が聞こえてくるものだからね。それは君を傷つける。聞き流していても少しずつ君の心をすり減らす。いままで親しい間柄だったのに、手のひらを返したみたいに君と真反対のことを言い出す声だってあるかも。まるでこの夕焼け空みたいに、いろんな色が混ざらずに存在して、あぁひとりぼっちだなあって思うんだ。だからどうしようもなく苦しくて悲しくなるよね。 　でも大丈夫。生きていけるよ僕たちは。休んだり、立ち止まったり、たまに逃げたりしてね。それにねえ、ふふ、知ってるかい。こんなふうに、いろんな色が混ざらずに存在してるのは、なにも夕焼け空だけじゃない。夜明け前だって、そうなんだよ。 　お、いい飲みっぷりだね。構わないよ。それでこそ、コーラを持ってきたかいがあったというものさ。このあとは……うん、そうだね。君の言うとおり一緒に空でも眺めていようか。少なくともその間だけは、僕たちはひとりぼっちじゃないからね。

「帰ろう」 突然の雨に立ちすくむ僕の手を引く。君の薄紅色のシャツがすみれ色に変わって、目を離せなくなった。 明るい笑顔ではしゃいでいた君はもういない。泣きじゃくる僕と君を、暮れていく空が隠していく。 「俺、明日から入院するんだ」 「入院？」 何の脈絡もなく笑顔でそう言う彼。 「うん、ちょっとね。そんな顔しないでよ、すぐ治るから！」 いつも通りの軽い笑みを浮かべていたから、僕も笑った。 「治ったらさ、海行こうよ」 「いいね。絶対行こう」 そんな約束を軽く取り付け、闘病がんばれよ、と冗談まじりの挨拶で別れた。 一ヶ月経って、彼の容態は悪化していた。 僕は、毎週のように彼の元を訪ねた。花束、果物、他の友人からの手紙などを持って、元気付けるように振る舞った。 「大丈夫だって！元気だよ」 明らかに前より痩せた顔で、へらっと笑う。見ていられなかった。 ある日、外出の付き添いをして欲しいと連絡があった。僕は急いで病院へ向かう。 「待ってたよ」 そこには、普段の服を着た、入院前のいつもの彼がいた。 「行こう！楽しみだったんだ」 僕の腕を掴んで歩き出す。細くなった腕が袖から覗いて、僕は嬉しいような悲しいような気持ちを飲み込んで、彼についていった。 僕たちはいつも通り遊んだ。店を見て回って、ランチを取り、カフェで一息して。 「治ったら海行こうって話したよね、前」 彼が窓から喧騒を見つめながら呟いた。 「ああ」 「わがまま言っていい？」 上目遣いで笑う君。 「ものによるよ」 「海行きたい」 予想通りだった。しかし、海まで行っていては病院の門限に間に合わない。 「……空じゃだめ？」 僕たちはできるだけ高くて見晴らしのいいビルの屋上を見つけた。人もいない、柵もそこまで高くなく、あたりを一望できた。 「わ、街を一望だ！いいね」 彼は、柵にしがみついて空を見たり街をお見下ろしたりして、子供のように笑っていた。 「いい眺めだね」 「今度出る時も来たいな」 美しい景色を眺め未来を語るのも束の間、分厚い雲がかげり通り雨が降り出す。 「帰ろう」 そう笑顔で呟いた君は本当に綺麗で、儚かった。雨すごい、なんて笑っていたと思ったら、俯いて泣き始めた。 「ずっとこのままがいい」 雨か涙かもわからない。ただ全身を濡らして２人で泣いていた。 そこから先は、思い出したくない。 雨でふやけた悲しい想い出の君。

時計の針は、午前2時を指している。少し休憩をとろうと、コーヒーを入れ、ソファーに腰を下ろした。 　 看護師の見回りの足音と、無機質な機械の音だけが、闇に包まれた病棟に響き渡る。 　 　看護師だった妻とは、お互いのスケジュールを調整して、長年やりくりしてきた。 　勝気でおしゃべりな一人娘の砂織は、夕方、どちらが退勤してきても、自宅そばの公園まで迎えにきていた。 　駅までの通勤途中にある公園は、少し高台にあり、街全体が見渡せる。今の時期は、サルスベリの濃いピンクが入り口を覆うように咲き乱れている。 　砂織はその公園の一角に座り、帰宅途中の両親のどちらかを見つけると、公園入り口の石段を駆け下りてきた。 　転ぶから走らないで，と何回も妻も私も注意したが、そんなことはおかまい無しで、ポニーテールを揺らしながら笑顔で駆け下りて来る砂織が、とてつもなく愛おしく思えた。 　 　そう、あの日までは毎日続いた光景だった。 　 その日自宅で夜勤の準備をしていた私は、遠くから近づいて来る救急車の音に不穏な気配を感じながらも、二人が手をつないで帰ってきて、扉を開けるのを待っていた。 毎日、定位置から駅方面を眺めていた砂織は、その瞬間も、残酷なまでにはっきりとその目に焼き付けてしまった。 　 　砂織、小６の夏、公園そばの交差点で、妻は信号無視の車にはねられ、即死だった。 　 　あれから何度の新緑の季節を数えただろう。 　石段を駆け下りて来る、ポニーテールの笑顔は、あの日以来一度も見ていない。 　少女から大人へ伸びて行く一番多感な時期に、父親にも大した反抗もせず、毎日真面目に学校に通っている砂織。 　癒える事のない悲しみと、どう向き合ってきたのだろう。 　 　 　あの日から何度も見上げた石段を、数年ぶりに上ってみた。 　まだ薄暗い中、石段を上りきると、早朝の公園の静けさが広がっている。 　いつもの一角に視線を向けると、ボブカットの学生が座っていた。 　目を細めその姿をとらえると、明けかけた東の空を眺めているのは砂織だった。 　近づいて肩を叩くと、砂織は振り向いてヘッドフォンを外した。 　憂いを帯びたその表情が、一瞬妻の顔に重なった。 「お母さんの夢を見たの。今日は夜勤明けだから、迎えにきてね、だって。」 　 　サルスベリの甘い香りに混じって、ふと、妻の声が聞こえた様な気がした。　 　朝日の中、並んで帰途についた。 　空を見上げた。 　歩いて行こう、これからも。 　歩いて行ける。君がいつも見ていてくれるから。 　

懐かしい屋上の香り。 風の涼しさと幻想。 何もなくなった後に来ると、心にくるものがある。 一言に蜜柑色と形容する、 その夕暮れは「彼は誰時」と呼ばれる。 烏の影を見て思う。君の背中をそこに。 離れていく、ただ、残酷な思い出を残して。 屋上の淵に座れば、ビル風が舞っている。 夕日がきれいだ。 気を紛らわせる音楽を両耳に飾り、 遥か空の向こう、心でも見つめるように。 幸せだった。 風の慰みと烏の合唱を抱きしめる。 蜜柑色に染まる町の真ん中で一人きり。 君の背中を留められなかった。 夕日が沈むように、気付けば。 後悔は涙になって溢れた。 言わなければよかった、あんな言葉。 町の雑音がその心を飲み込んだ。 君が好きな炭酸飲料を持って屋上。 君が好きな音楽を聴きながら。 何が「忘れてやる」だ。 忘れる気なんて、端からないくせに。 一日の終わりにさざめく。 蜜柑色と群青を描き混ぜる。 延々と、風を感じながら。 そんな、私の思い出の最後の頁。 「明日、また来るの？」 来るよ、きっと。 まだ、忘れられないから。

大学2回生の私はレコード収集が趣味。 今日もお気に入りの店へ寄った。 特に目当てのものは見つからなくても、店の雰囲気を感じるのが楽しい。 店を出たところで偶然高校の男友達とばったり出会ったので、喫茶店で少し話した。 あいつ、コーヒーをブラックで飲んでて、 多分無理してたんだろうね。 昔コーヒーは嫌いって言ってたし、苦いものもてんでダメだったから。 私は少し笑ってしまった。 喫茶店であいつと別れてから住んでるアパートに帰った。 夕陽が綺麗だったので屋上に上がった、コーラと携帯プレーヤー、ヘッドホンを持って。 レコードはたまにしか聴かない、パケ買いってやつ？ 音楽を聴きながら夕陽を眺めてボーッとするのが好き、ちょっと大人でしょ。 夕陽を眺めながら何を考えてるかって？ それは、どこのメーカーのコーラが美味しいか、とかだけど……。

街が静かに眠る中、ふと救急車の音で覚醒した。枕もとの携帯電話に手を伸ばすと、午前5時。起床時間までまだ2時間ある。 　もうひと眠りと思ったが、思ったよりはっきりと目覚めてしまったので、軽く伸びをして台所に向かった。寝ている母を起こさないように、そっと冷蔵庫を開けて、昨日仕事帰りの母が買ってきてくれたコーラを手にした。 　一口軽く口に含むと、体がぶるっと震えた。八月なのに雨の日が続き、朝晩多少肌寒い。 　長袖を羽織って、音を立てないように玄関の扉を開けた。家のすぐそばに、高台の公園があり、そこの一角が私のお気に入りの場所だ。自分の住む田舎町が広く見渡せる。 　この時間帯は嫌いだ。昔から病気がちで、幾度も入院を重ねた幼少期を思い出す。母の付き添いが夜八時までで、一人で眠りにつき、朝早く薄暗い中目覚めたときの心細さが、鮮明に蘇る。 　救急車の音で目覚めたからか、特に当時の記憶が鮮明になり、足元がふらつくような錯覚を感じた。 　ポケットの携帯電話から音楽を流し、現実に戻ってきた感覚を取り戻す。 　昨年から1年間、学校に行っていない。感染症が流行る中、持病持ちの私を心配した母と、相談した上での自主休校だ。 　高台から見下ろすこの世界が、自分とは完全に隔離された世界のように感じる。 　友達とも1年間、会っていない。Lineでのグループトークの内容も、遠い世界の話のようで、見るたびに疎外感に苛まれる。 　 　自分は、この世界において何者なのか。 　何ができるのか。 　どこへ向かうことができるのか。 　足元に広がる闇が、自分を掴み引きずり込む。 　この闇は、永遠に明けることのない自分の孤独なのだろうか。 　ヘッドオンから流れてきた音楽が、途切れた。 　とてつもない静けさが自分を包んだ。 　その時 　東の空が明るみ、視界が広がった。 　徐々に広がるその明るさに、私は目を細めた。 　足元に広がっていた闇は、少しずつ明るさを取り戻し、私の足元を鮮明にしていった。 　大きく伸びをして、帰途へ一歩踏み出した。 　 　母はもう起きているかな。今日は私がトーストを焼いて、ハムエッグを焼いてあげよう。 　 　大丈夫。私は歩いて行ける。そしていつかここから飛び立つことができる。 　自分の場所で笑いあうことができる。 　だって、私は生きているから。

「君にとっての私って、なに？」 人通りの少ない、いつもの三叉路。 君は歩みを止め自分の影に視線を落として、ゆっくりと目を閉じる。 いじわるな質問だと分かっていたけれど、春が来ればこの街を去ってしまうからこそ、君の口から答えを聞く必要があった。 でも私たちは、沈黙を選んだ。 もう飽きるほど暮らしたこの街に、今日も陽が沈む。 通い慣れた屋上で何度同じ光景を目にしてきたのだろう。 暮れなずむ景色の中で私は、いっそのこと世界が終わってしまえばいいと想った。 想って、願った。 君も、私も、誰も彼もただ曖昧な日々を続けていきたいだけなのに。 問題を先送りにして、何も気がつかない振りをしたいのに。 時間が、焦りが、それを許してはくれない。

深夜、公園の入り口で恋人のユウヤを待っていた。 「ごめん、別れて」 彼の姿が見えてから数秒もしない内に、息を吸うようにそう告げた。 「…それ、サナお得意の冗談？」 笑顔と共に絞り出されたその言葉は少し震えていた。 どんな言葉を伝えれば彼が傷付かずに済むのか一瞬考えたけれど、そんなものにきっと意味なんてない。気持ちを伝えたところで別れる事に変わりはないし。 サナは軽く会釈だけして、ゆっくりと家までの暗い道を歩いて帰った。 ―― ― 赤く反射した雲が夕焼けを目指して飛んでいる。その景色がサナに孤独を教えていた。 「恋人ってなんだろうな。」 ぽつりと呟いた。 相手の為に恋人として何かをしなくてはならない、身勝手な重荷がいつも違和感を作っている。 ただ一緒にいたいだけで相手の時間を縛ってしまうことも、何だかわがままに思えた。 冷たい風が頬に触れ、かじかんだ手で音楽プレイヤーのプレイリストを開く。 「ふふっ」 タイトルには『俺のオススメ！！覚えて一緒に歌お！！』と書かれていた。 聞き覚えはないけれど、確実に彼が選んだと分かるのが悔しくも笑えてしまう。 関係が変わっても私の中にあるユウヤへの気持ちには何の変化もないことが更に可笑しく思えてきて、サナは一人で腹を抱えて笑った。 外が次第に薄暗くなっていく。 サナは流れてくる曲々を丁寧に聴きながら、街が夜に沈むのを待っている。