私はウイルスの研究者で、あなたは応募者から偶然選ばれた被験者のうちの一人。いや、今考えれば、もしかしたら必然だったのかな。 「君はどうして研究をしているの？」 「えっと……いつか人々を襲うような未知のウイルスが出てきたとしても、世界を救えるように毎日準備しているの。もちろん、あなたのことも救えるようにね」 「そうなんだ。とても素晴らしい志だね。僕もその一部に貢献できることを誇りに思うよ」 それが、最初の私たちの会話だったことを今でも覚えている。なぜなら、そんな人間味のある会話なんて久しくしていなかったから。 私たち研究者は、人間よりも実験動物やウイルスと関わる機会が多く、人とコミュニケーションをとる機会がほとんどない。それは、この職業を選んだ以上、当たり前のこと。そもそも、小さいころから集団というものに馴染めたことがなかった私にとっては、必要最低限の会話だけですむ居心地の良い環境だった。 はずなのに……。 被験者との研究を進めて、間もないころだった。 あなたは、いくつかのウイルスに耐性がある「特異体質者」であることがわかった。 その存在自体が稀有な存在なのだけれど、あなたがもつウイルスへの耐性は一般的な特異体質者の数倍もあった。 「『超』特異体質者」 私はあなたをそう定義した。世界を守るために、あなたはとても貴重な存在。だけど、私はあなたがいない世界なんてもう考えられなかった。だから、世の中に広く知られないように、私は、研究者としてではなく、ひとりの、あなたを、愛する人間として保護した。 それから数年経った頃だった。未知のウイルスが世界を襲ったのは。 化学の進歩が目まぐるしく、医療設備が十分に整った国でも、感染を止めることは出来なかった。感染者数や重症者数、医療現場の悲痛な叫びなどが日々のメディアで流れていた。 「僕の身体を使ってよ」 と、突然のあなたの言葉に戸惑う私。 「優秀な君なら、僕の身体を有効活用出来るでしょ？」 たしかに、ウイルスにわざと感染させて、そこから一般的なワクチンをつくるプロセスは既に存在する。でも、こんな致死率が高くて未知のウイルスを人間で、それもあなたで実験するなんて……。 「僕は君の、世界を救いたい、という言葉に感銘を受けたんだ。それに、研究者として世界を救えるかもしれない手段を、この状況で使わないのはありえないと思うよ」 普段よりも強い言葉で話すあなたの目には、覚悟があった。

僕の父は、イカれた研究者だった。 18歳の誕生日。 僕は父に、全身をロボット化され、アンドロイドとなった。 父は、意気揚々と自分の研究成果を発表したが、「倫理観に反する」と世間から大バッシングを受けた。 やがて父は逮捕され、僕は国からの救済措置で、永久に補助金を受けられることになった。 それから50年。 僕は永遠に高校生として生きていた。 僕は、何で生きてるんだろう？ どうやったら死ねるんだろう？ そんなことを考えている時だった。 彼女に出会ったのは。 「ねぇ！君って大人っぽいね」 入学式で、突然声をかけられた。 「お昼、一緒に食べない？」 「明日、試験勉強しに行こうよ！」 面倒見のいい彼女は、いつも１人でいる僕に、何かと世話を焼いてきた。 そして、僕が彼女の人柄に惹かれていくのに、そう時間はかからなかった。 「私、宙くんのことが好きだよ！」 「…僕も、君が好きだ」 それから僕は、初めての大学受験をした。 2人で同じ大学に合格し、人生で一番、幸せな時間を過ごしていた。 大学3年生の夏。 彼女が言った。 「宙くんて、出会った頃とあんまり変わらないね」 …限界だ。 僕は彼女に本当のことを打ち明けた。 「そんな…ことって…」 彼女の瞳から、大粒の涙が溢れ出た。 「辛かった…よね…」 僕のために泣いてくれるのか。 どこまでも優しい人。 それからも僕たちは、変わらず、ずっと一緒にいた。 最初は恋人に見られていた2人だが、時が経つにつれて、その関係は姉弟に、そして親子に、間違われるようになっていった。 彼女が90歳の誕生日。 病気が進行し、医者には今夜がヤマだと言われていた。 「宙くんは、変わらないねぇ」 そう言いながら、彼女はしわしわになった手を、僕の手に重ねた。 「君も…変わらないよ」 僕は、笑顔でそう返した。 笑顔…をきちんと作れていたのか、正直自信はないけれど。 それからしばらく、棚の上の冷却ポッドを見ながら 「あぁ…あの中に彼女を入れて保存できたらいいのになぁ」 なんて、バカなことをぼんやり考えていた。 「…最期まで一緒にいてくれて、ありがとう」 彼女が、振り絞るようにそう言った。 「僕の…方こそ…！」 涙なのか。 ただの機械のバグなのか。 僕の瞳から、次々と水滴がこぼれ出た。 「宙くん…生きて、ね…」 ピ――ッ 渇いた電子音が、病室に響き渡る。 君は、残酷だよ。 君のいない世界で僕に生きろと言う。 それなら、せめて 君との思い出は、この冷却ポッドに詰めて――

　よ、久しぶり。 　なんとか言いなさいよ。ほら、一緒に花火を見る約束してたでしょ。だからイタリアから戻ってきたんだよ。 　さ、行こう。 　それとも、ここから見る？ 　そっか。じゃあ、ここでいいや。窓から見る花火ってもの悪くないし。 　もうすぐ始まるかなぁ。 　ここは静かだね。 　私さ、日本の花火が世界一って根拠もなく信じてたんだけど、ベネチアで見た花火も綺麗だったよ。伝統的な古い町並み。運河に並ぶ沢山のボート。水面に揺らぐ花火。 　まさか私がレデントーレの花火に歓声を上げてた時に、あなたが死んでるなんて思わなかった。 　虫の知らせって言うの？ 　はるばるイタリアまで飛んできてくれたんだね。 　花火見てる時に、あなたが死んだって耳元で囁かれて、すぐに飛行機に飛び乗ったんだよ。 　友達からメールが届いたのは、飛行機の中だった。 　ねぇ、なんで病気のこと隠してたの？ 　知ってたら私、留学しなかったのに。 　きっとあなたのことだから、私がそう言うと思って黙っていたんだよね。 　こんなのってないよ。 　待っててくれるって約束したじゃん。 　あの話の続きだって、まだ終わってないよ。 　もっといっぱい同じ時間を過ごしたかった。 　あなたのそばにいたかった。 　今度はあなたが遠くに行っちゃったね。 　あぁぁ……。 　見える？ 　……花火、綺麗だね。

　21世紀末。 　度重なる環境破壊、そして愚かな争いの果てに人類はヒトカケラのみとなってしまった。 　温暖化により大陸の99％は海の涙に呑み込まれ、残された人類は“最果の地”へと追いやられていた。 「どうか、安らかにーー」 　その日は『終末祭』のカーニバルが催されていた。 　僕と君は失った家族や仲間に想いを馳せ、灯籠を悠久の海の随に流した。 「綺麗だね。ぜんぶ悪い夢だったって、勘違いしちゃう」 　君は物憂げに呟いた。 　星屑となった灯火が、モノクロの世界を温かく照らす。 　その奇蹟にも似た情景に世界の終焉への実感が沸かない。 　僕らは手と手を重ね、最期の一夜を共に生き抜いていた。 「私、方舟に乗るの、怖い……」 　君は儚げに僕の手を握りしめた。その掌は、ひどく怯えていた。 「方舟は、最期の希望なんだ」 　震えるその手を、力強く握り返した。 『方舟』 　それは、人類存亡を賭け開発された、人類補完装置。 　高濃度の特殊化合物で人体を超急速に冷却するポッドだ。 　その結果、人体は体内時計を止め、変わらぬ姿のまま遥か遠い時間軸を生き長らえることができる。 「ずっと永い時間、ひとりぼっちなんだよ」 　しかし、再び地球が回復するそのときまで、暗闇に身を委ねなければならない。 　それが1万年後か、それよりもっと先なのか。それは、誰にもわからない。 「世界が終わってしまうなら、自分も消滅したいの」 　壊れそうな君は、憂う眼差しで僕を見つめた。 「だめだ！」 　瞳を濡らす君を、力の限り抱きしめた。 　この想いがたとえエゴイズムであっても、君だけは失いたくないんだ。 「大丈夫。もし目覚めることがなくたって、僕は君を忘れたりしない」 　君の生命が宇宙(そら)に還ったとしても、僕だけは君を記憶し続ける。 　冷却ポッドにずっとずっとしまっておくよ、だから……。 「キスしたあの日のことだって、忘れてなんかやらない」 　真剣すぎる告白に、君はクスッと笑いだした。 　そうだ。 　この笑顔こそ、僕の世界のすべてなんだ。 　でも、本当は怖いんだ。 　僕は君に、ちゃんと幸福をあげられているだろうか？ 「おやすみ。また、明日」 　そう告げた僕らは、方舟という名の夢幻のゆりかごへと旅立った。 　久遠の眠りを漂い、君との遠い未来を夢見た。 　しわしわになった手と手が重なって「君は変わらないね」って笑い合う、そんな僕らがそこにいた。 　それは、僕が望んだレプリカの幻影だった。 　それでも僕は希う。 　この夢路の果てに、君との明日があると信じてーーーー。

見つからない。見つからない。見つからない。見つからない。見つからない。 あのブレスレット。名前入りのオーダーメイド。 あれ一つだけあればいいのに。 諦めて乗った新幹線。乗ってたときは平気だったのに降りた途端にやらかしまった。 ダメだなぁ。このままでは、家に帰るどころか駅のホームからも出られない。 誰にも内緒にしてた恋人関係。 鏡に写る自分が好きじゃなくて、一緒に写真も撮ってない。 傍にいるだけで満足だった。物にはこだわりたくなかったから、そういうのはいいって遠慮してきたけれど、貰っておけばよかった。今更だよね。 彼の持ち物をほしがっても、でも恋人だったって信じてもらえなくて。 思い出は不確かな記憶になっていて。もう他には何もない。 あなたと私が恋人だったって証拠、なくなっちゃった。

誰もいない放課後の音楽室でこっそりピアノを弾く、それだけが私の唯一の楽しみであり、居場所だった。 そう。「ピアノが好き」という以外に私には何もなかったんだ。 平凡なサラリーマン家庭。 毎日なんとなく過ぎてゆく毎日。 このままなんとなく卒業して、なんとなく就職して、なんとなく、なんとなく――ずっとその繰り返しのはずだった。 そんな私にあなたは「好きというのはそれだけで才能だよ」と言ってくれた。 あなたは臨時雇いの音楽教師。 私の卒業までいるかどうかもわからない。 なのに私の世界に失礼なくらい唐突に踏み込んできたね。 言うにことかいて音大を受験してみないか、だなんて……ホント、無責任。 でも……実はあなたの言葉なら不思議と信じられる自分がいたんだ。 放課後の音楽室、私の演奏を聴きながら、あなたはいつも無糖の缶コーヒーを飲んでいたね。 甘ったるいくらいのミルクティーが好きな私の好みとは真逆な飲み物。 なのに、あなたがふと目をそらした瞬間、私は飲みかけの缶コーヒーに口をつけていた。 口の中に拡がってゆく苦さ……無理！ なのに顔をしかめながら、あなたに少し近づけた気がして嬉しかったんだ。 好き？　愛してる？ そんなのはよくわかんないし、この関係がむくわれたいなんて思ったことはなかった。 関係？　大げさだね。 ただ、毎日放課後の音楽室という時間を共有してるだけなのに。 この時間がいつまでも続けばいいと思ってた。 でも―― 卒業、そして音大に合格。 私は新しい自分の居場所を手に入れたよ。 だけど、そこにあなたはもういないんだね。 居場所もあなたも全部欲しかった。 すぐ隣でこれからもずっと屈託なく笑っていて欲しかった。 それはお前のわがまま……わかる。わかってるよ。 だけど、なんでか涙が止まんないんだよ。 ね……先生、あなたは私のことをどう思っていましたか？ そしていまどう思っていますか？

『ちゃんと水替えてきた？』 「うん、大丈夫。」 暗い工場でインプットされた言語情報しか知らなかった僕は24歳だった彼女に身の回りの手伝いをする代わりに世界のことを教えてもらった。彼女は物書きだということ、ご飯は誰かと食べると美味しいこと、植物は人より長生きすること、嘘は上手じゃない方が良いこと、優しいオレンジの夕方は泣くのに一番だと言うこと。 朝起きて、着替えて、階段を降りて、一緒に15分で朝ごはんを食べる。僕にとって何十年も変わらなかったが、その間に君は同じことを同じようにできなくなっていた。彼女が定年で仕事を辞めてから買ってきたテーブルヤシは、いつの間にかテーブルをはみ出して気づけば大きな鉢植えに寝床を替え、所々に傷をつけながらももうすぐ僕の身長に追いつきそうだった。大きな光が入る部屋の中でただ僕だけが何も変わらなかった。 窓際のベッドに横たわり『こんなしわしわな私は忘れて、可愛かった頃だけ覚えてて』と言う君は本当に昔から変わらない。それが僕のエゴでも、君の全てを覚えておきたい。でも本当は君の手の細かいしわまで覚えていられたらよかった、君のネコのような髪をうすくすいてみたかった、もっと柔らかくキスをしてあげたかった。まるで本物のように作られた僕の肌に神経は無く本当に細かいところまでは感知ができない。僕は君と同じように君に触れられていたんだろうか。うまくやれていたんだろうか。言葉には感情が忘れ去られていなかっただろうか。君に僕はちゃんと人として幸せを返せただろうか。優しく握り返された手には全てを見透かされているようだった。 病室を出てからじゃないと泣けないような強がりなところは本当に君とよく似てると思う。 冷却装置を巡った使用済みの水が溢れているだけの僕たちの涙を偽物だと言う人たちもいる。そうかもしれない。それでも今僕は君を失う不安と未来の悲しさを思うとそれが止まらない。きっと僕はこれからも君に教えてもらった笑い方でくすくすと笑うだろうし、君に教えてもらった綺麗な言葉を使って生きていくんだろう。

結局言えなかったけど、最初、あなたのことが嫌いだった。 だって同じ学校の人がいるのは嫌だと思ったから遠くの小さな塾に決めたのに、クラスでよく目立つあなたがなぜかいたから。 せめて無視してくれればいいのに、あなたは話したこともないはずのわたしを大げさに喜んで隣にいた林くんにも話すのは、馬鹿にされてるとしか思えなかった。 でも講義の終わりにすぐさま、わたしを大きな声で呼び止めてコーヒー缶をくれたとき。 仲良くやろうよって言う声色で、ああ本当にこの人は仲良くしたいって思ってるんだってわかった。 あれでちょっと、あなたを嫌いじゃなくなった。 （ただわたしコーヒーが飲めないから、もらった缶はお兄ちゃんにあげちゃったんだけど） あの後もあなたは声をかけてくれたけど、好きになったのは塾終わり、わたしが公園でひとり親の迎えを待つ間、話し相手になってくれてから。 女の子ひとりは危ないよって口にはしなくても気遣ってくれてるのがわかって、さすがにそんなことされたら誰だって好きになると思うし、実際好きになってしまった。 その後はすべてが早くて、あなたの喉仏も骨ばった手も長いまつげも、優しい言葉遣いも柔らかいうなずきも癖のある笑い声も、全部がどんどん好きになるきっかけになって、なんだか自分でも怖かった。 でもあなたの話を聞いてると、好きな人がいるのはすぐにわかった。 あなたは誰にも気づかれていないと思っていたかもしれないけれど、わたしにはわかりやすくて、悲しかった。 わたしが欲張りじゃなければそれで満足できたはずだったけど、受験が終わって最後の塾の日、どうしても我慢できなくなった。 いつもの公園で余計な勇気と欲張りをして、わたしはあなたに言ってしまう。 「林くんに告白しないの？」 あなたはびっくりしていたけど、「どうして」とか「気づいてたの」とは言わなかった。 ただ目を細めて、「しないよ」って優しく返してくれたのが、わたしは嬉しかった。 わたしには気づかれて当然だろうって思ってくれたみたいだったから。 でもわたしはわたしのために、あなたにそうした質問をしたのだ。 わたしは自分の最悪さに泣きそうになるけど、微笑み続けた。 せめて泣いてあなたを困らせたりしないことが、わたしにとって最後のできることだったから。 「ばいばい、元気でね」というわたしの声はいつも通り。 わたしはあなたの善き友人にはなれなかったけど、ふりぐらいはできているといい。

思いやりは、どこへいってしまったのか。 何もかもがデジタル化して、人との繋がりは、機械仕掛け。 検索する手が止まる。 誰かを想うということは、何なのかの答えは得られない。 テレビや映画の中でしか見たことのない緑の楽園。 いつかそこで過ごした大切な景色を思い出して欲しくて、宙を仰ぐ。 灰色のドームが映す空の時刻ごとに決まった色彩にはあたたかさが足りない気がした。 その中で作られた光に、どれだけの意味があるのだろう。 ふと、頬を熱いものが伝う。 何が哀しいのかはわからない。 けれども、思うのだ。 この痛みが"心"という概念からくるものなら、人にはまだぬくもりがあるのではないかと。 いつか本物の空の限りない美しさ、さんさんと輝く太陽の息吹に触れたい。 自分に出来るのが、可能性を信じることだけだとしても。 変えたい、そう願った。 この世界に生きてる命がある限り、まだ諦めてはいけない。 光が無くなる前に、歩み出そう。 当たり前になった価値観に負けそうになっても、守りたいものがあれば、立ち上がれる。 だから希望の灯火を消さずにいよう。 溢れ出す涙が落ちる場所が過去ではなく未来なら。 その日々に出逢うための一部になりたい。

　こんなに、胸が苦しくなったことはなかった。 　こんなに、自分が無力だと思ったこともなかった。 　友達が遠く離れていくって聞いた時も。 　お父さんに怒られた時も。 　部活の大会で負けた時も。 　我慢できたっていうのに。 　歯を噛みしめたら、感情を押し殺せていたのに。 　――苦しいよ。 　溢れ出して止まらない。 　『想い』が溢れて、熱を持って……瞳を濡らすんだ。 「……苦しいよ……っ」 　やっと、やっとだったんだ。 　やっと……自分が一番になれると思っていたんだ。 　誰かの一番になれたと思っていたのに。 「せんっ……ぱい」 　今までが全部、夢だったらよかったのに。 　そうしたら『幸せな夢だったな』って割り切れるのに。 　思い出すとツライはずのコレは全部、私にとってかけがえのない現実なんだ。 　忘れられないくらいに色鮮やかで、人生に色を付けてくれていたんだ。 「…………あの約束は、嘘だったのかなぁ……っ」 　先輩と約束した言葉が、頭の中で渦を巻いて、黒く淀んでいく。 　 　涙が止まらない。 　歯を噛みしめても。 　上を向いていも。 　周りに人がいるんだぞって言い聞かせても。 　涙が止まらないんだ。 「うっ……あああっ」 　笑顔で言ってくれたんだ「お前が好きだよ」って。 　約束してくれたんだ「待ってるから」って。 　その言葉を思い出しただけで、私の中でも「好き」が溢れて、どうしようもなく「大好き」になっちゃって。 　でも、その笑顔は……どこかに行ってしまう。 　私がいる場所ではなく、遠いところに。 　聞いていられなくなって、バカみたいに走って。 　先輩にも絶対、気が付かれた。 　目が合って。何かを言おうとしていて。 　雨のカーテンが遮ってしまった。 　 　 「わたしって……バカだ……バカだよ、ほんとに……」 　あぁ……どうか、こんな惨めな出来事を雨水が流してくれますように。 「……信じてます、から……せんぱい……っ」　 　雨の音が、ちっぽけな私の声をかき消してくれていますように。

彼女が涙を流す理由。 　―――それを言葉にするのは野暮だろう。

最初からわかっていた。 答えなんてとっくに知っていた。 一歩の勇気で変われる私のエゴイズム。 傲岸すぎるほどの私のワガママ。 何度もぶつかった過去の日々。 今はそれすらも懐かしい。 今年一番の最低気温が、私の息を白く染め上げた。 虚しい羨望は、涙に溶けて雪とまざる。 ひとつ、またひとつ。 記憶の欠片が地面へと落ちていく。 私が覚えていた彼との思い出が、涙に変わる。 それは過去へのパスポート。 でもそのパスポートは期限切れで、 千切れた半券だけが残っているだけ。 だからこれも記憶の欠片。 あとどれだけ残っているのだろう。 止まらない涙は記憶の断片で欠片。 形が違うだけで過去に戻れないパスポート。 それを思うだけで、私は虚しくなった。 ああ、空っぽになっていく。 記憶が出ていって、私という存在はがらんどう。 足は涙まじりの雪におおわれて、私はその場に立ち尽くした。 空は灰色におおわれて、私を拒絶する。 そう、彼との記憶は夏の日が多かった。 だから、冬の欠片は一つもない。 季節すらも私を仲間はずれにする。 もはや、意味の無い涙がぼろぼろとこぼれた。 私は何のために泣いているの？ なぜこんなことになっているの？ どうしてこんなに苦しいの？ 「知っているのなら、誰か教えて……」 そうつぶやいて、膝をつく。 そこには、つもりつもった記憶の欠片があった。 『最初からわかっていたでしょう？』 欠片の山が私に問う。 「私は何を知っていたの？」 雪をすくい涙まじりの欠片を大きくひとまとめにした。 『叶わないってわかっていたでしょう？』 「……」 わかっていたけど認めたくなかった。 認めてしまえば、本当に終わってしまうから。 すぅっと、涙のしずくが頬を伝う。 これは記憶か、違うものか。 もうそれすらも、わからなかった。 灰色の空が、黒く病んでいく。 『決断まで、時間がないよ？』 欠片がわたしに問いかける。 さっきまでと違う、優しい音階で。 涙がもう一つ伝った。 知っていた。 わかっていた。 ただ、認めるのが怖かっただけだ。 さっきまでの私にさようなら。 最初からわかっていたらなら動けるでしょう？ その足を一歩踏み出せ。 記憶の欠片よ過去になれ！

2050年、高度な人工知能と半永久的な身体をもった新人類Anesが登場した。人間が生み出したサイボーグは核や生物兵器といった主要な軍事プログラムをその管理下におき、瞬く間に地上を支配した。生態系の頂点が入れ替わることで、それまで人が担ってきた役割はなくなり、人は生殖活動のみが求められる存在となった。人の体をベースに作られるAnesには生殖機能がなかったためである。 生殖活動のため、繁殖期にある男女はバースと呼ばれる施設に送られ、ひたすらAnesのベースを産み続ける。幸い、もし生まれた子供が「規格外」だった場合、その親には無条件で居住者IDが与えられ、バースから解放された。体のパーツを人工物に置き換えているAnesにとって、先天性異常をもつ者達は自分たちに最も近い存在であり、遠い祖先であり、貴重な研究対象だったからである。 　JK5648nAsは数少ないそんな男の一人だった。5人を妊娠させ、そのうちの1人が染色体異常児を産んだ時点でIDが発行され、バースを出た。 自分を呼ぶ声に振り返ったAN3749utAは、転びそうになりながらJKの胸に飛び込んだ。JKは彼女にIDを見せると、その肩を抱きながら家に入った。そして3年前もそうしたように、ベッドのリンにかがみこんで「ただいま」と前髪をなでた。リンが目を動かすと「お帰りなさい」と胸のボードに文字が流れ、電子音が読み上げた。 「頼んだものは？」 「車に積んである。ねぇ、私たちも・・」 「ダメだ、お前はリンとここに残れ。リンがいればお前は安全だ」 JKはあの女を殺してきたと言った。 「あの人、時々食べ物を持ってきてくれた。リンもなついてた」 「俺が姿を消したら、即あいつの脳が開けられて、俺たちのデータが管理センターにとぶ。薬を使って規格外を妊娠させたことがバレる。やるしかなかった」 無言のまま自分を見るANに、 「あいつが、殺してくれって言った」そう言うと、JKは運転席に乗り込んだ。 「Anesと共存できないの？　どうしても戦うの？」 「家畜のままでいいのか」 そう言うとJKは走り去った。

最後の声はお互いにいつも通りだったと思う。他に何て言えば、何を伝えたら良かったんだろう。ただ過ぎていく時間を受け入れることに慣れたはずなのに、何故か今日は同じ事を繰り返し考えてしまい、ついには動けなくなった。冷えた頬に頼りなくこぼれる涙を拭う力が入らない。 ＊ 　まわりが年下ばかりの環境でどうしても馴染めずにいた学生時代。看護の勉強をしていた私は授業の合間いつも更衣室へ逃げては電話をしてやり過ごしていた。 「大学を出た後に専門学校はキツイでしょ。厳しそうだし。友達は出来た？」 「つらい、帰りたい。友達できない。……そっちはどうなの。卒業できそう？」 　毎回ほとんど同じ会話しかしていないのに安心できる存在で私の着信履歴を埋めてくれたのは、毎日イベントや音楽に夢中で卒業単位を落としてしまった彼女だった。就職した別の友達とは違いお互い時間帯を気にせずに連絡を取り合えた。同じ大学で出会って間もない頃も、私が夜のバイトを終え始発を待つ寂しい気分の時に何となくメッセージを送ると、彼女もまたクラブ帰りで当たり前のように起きていてすぐに返事をくれた。 「今日の夜いつものメンバーで会うからおいでよ！」 「そうなんだ！……あぁ、でもこの後の実習で疲れると思うから今回はやめとくわ。楽しんできて。ありがとう」 　私はその日、嘘をついた。実習なんてなくてただのつまらない理由からだった。――“やっぱり私も一緒に行こうかな”――そんな言葉であの子にとっての結末は変らなかったのかもしれない。それでも最後の言葉を上書き出来たら彼女の未来の可能性は消えずに済んだのか、どう考えても仕方のない意味のないことをふと思い込んでしまう。私を苦しめているのはそんなことではなくて本当はもっと単純なものかもしれないし、無意識に隠してしまった大切なことがそのままになって今はただ思い出せていないだけかもしれない。もう会えないあの子の胸の中にはどんな記憶が残っていたのだろう。強く瞬きをして涙が止むのを待ちながら想う。私と同じように、彼女のはみ出した記憶の中にも私のカケラが少しでもあればいいのにと。

彼は世界を救った。 　私はそのことを絶対に忘れない。忘れてたまるか。 　この世界は彼がいたから今がある。でも、そのことを誰もかれもが忘れている。 　まるで初めから何もなかったみたいに動いてる。 　私は彼と誓ったんだ、世界の全てがあなたを忘れても私は忘れないと。 　だから私は大丈夫。そう何回も心の中で復唱しても、目から涙があふれてくるのはなんで。 　「会いたい」なんて思っちゃいけないのは分かってる。だけどさ、もう限界だよ。 　会いたい。今すぐあって抱きしめたい。 　それでも私は前を向かなきゃなんだ。 　あふれる涙なんか気にしない。私は忘れない。 　だから、今だけは、涙が止まらない私を許してほしい。この気持ちと一緒に心に刻んで一生忘れることない傷として残すために今だけは許してほしい。 　私は叫んだ。 「絶対に忘れないからあああぁぁぁー！　あなたも覚えててねっ……」 　涙で霞んだ目の前に彼が見える。 　彼は恥ずかしそうに微笑んで背を向けて行ってしまった。

わかってた。 差し込む光が、あなたの背中を消し去る中で、そっと静かに音が消えていく。 まるで後回しにしたスマホのように、誤魔化し続けた私が邪魔をする。 大切だと気づいていたのに。 今はもう書き込めない。 あのとき。 あのとき。 あのとき。 今更意味もなく、いっぱいになったストレージを減らすように、あなたの記憶をスライドし続ける。 あの日の何気ない一枚も、滲み出すように流れ落ちる。 「トン」 「トン」 「ットン」 まばらなリズムを刻み、あるはずだった未来もこだましながら消えていく。 あるものが消える、そんな経験は何度だってあった。 でも、どうしても。 大切なものの、0と1の差なんて大きすぎて考えられない。 何度も何度もただひたすら繰り返す。 気づけば、長く伸びた影がゆっくりと、淡く光る信号を指していた。 点滅する影。 「早く渡らないと」 小さな女の子が、繋ぐ手の先の母に言う。 でも、微笑みながら、そして温かく言い聞かせる。 「焦らずゆっくりでいいの。必ず青になるから。」と。 沈む夕焼けの中で、少し残る空の色を、ただほんの僅か静かに見つめていた。

昔から嫌いだった。まとわりつく黒髪も、よく聞こえる耳も、流れる涙も、全部。 高架橋の歩道のど真ん中でへたり込み、夕日を仰ぐ私は、最高に無様だった。 通行人は異質なものでも見るように、私を避けていく。私は滲んだ世界の中で、彼らをただ無感情に見送った。 頭の中では、音楽が鳴り続けている。 ずっと、ずっと、彼と作った音楽が鳴り続けている。びゅう、と風が吹き抜けて、滲んだ世界に西日が差し込む。 思わず目を瞑ると、暗闇の向こうで、彼の顔が浮かんだ。 幼馴染の彼は、歌が好きな人だった。 私は、歌を作るのが好きだった。 幼いころから私の作った歌を、彼が歌って、互いの両親によく聞かせた。 「いつか、大物になるぞ」なんてほめられて、嬉しかった。 小学生になって、中学生になって、高校生になって。私たちは歌を作り続けた。 学校終わり、放課後の音楽室。この部屋は、夕暮れ時だけ、私と彼だけの聖域となる。 ―――なんて、恥ずかしいことを考えていた。 高校3年生の冬。受験勉強で忙しいけれど、週に1回は音楽室で顔を合わせていた。 彼はシンガーソングライターになると決めていて、卒業したら音楽事務所に所属すると言っていた。 私は、私は、どうするのがいいのか、決められなかった。 進められるがままに受験勉強をして、地元の大学に通うことを目指してはいた。 ただ、彼と一緒に歌を作り続けたい。それだけが、願いだった。 ある日の放課後。音楽室に行くと、ピアノの音がした。 彼が弾いているのかなと思って、扉のガラス戸から中を覗き込む。そこにいたのは、彼と、知らない女の子だった。 彼は笑っていた。私の知らない笑顔で、私以外の人の演奏で、私の作った歌を歌っていた。 ひどく裏切られたような気持ちになった。 ああ、惨めだ。なんて惨めだ。高架橋の真ん中で、脚がもつれ、地面にへたり込む。 ああ、なんて惨めだ。目から涙が、ぽろぽろと伝い落ちていく。 勝手に期待して、勝手に裏切られて、それでも彼と過ごした日々が、瞼の裏でキラキラと輝いている。 いつまでも耳の奥で、彼の歌声が鳴り響く。 夕暮れの優しい光が、涙で滲み、乱反射。光が消える瞬間まで、私は目を瞑り続けよう。 高架橋の真ん中、夕日の降り注ぐ場所で、私は無言のまま、ひっそりとした誓いを立てた。

涙が止まらない理由は―― 自分でよくわかっているつもりだ。 彼が最初から私に気持ちがなかったことは、 なんとなく感じていた。 それでも彼を好きな気持ちを止めることは、 あの時の私にはできなかった。 外出する準備をしている時に彼のLINEに唖然とした。 携帯は冷たいメッセージのせいでフリーズしているようだ。 夜の闇より心の中の闇が深くなる。 ――結婚って？ そんな話1mmも知らない。 相手は由緒正しいお嬢様だと平然と明かす。 だからもう会えない、だと？ 怒りが私の頭の中を支配して全身を震わせる。 これは武者震いなのか。 私は走る。彼の元へ走る。 今日彼が泊まるホテルを知っていた。 何しろ今日会う約束をしていたからだ。 急なキャンセルの理由が結婚するからだなんて意味が分からない。 ホテルに到着してフロントから内線を入れてもらう。 拒否されたらどうしよう、なんて気持ちは怒りで吹っ飛んでいた。 そしてあっさり私は通された。 いざ彼の顔を見ると、何も聞けない自分がいる。 彼は言い訳もせず、黙って私の体を抱き寄せる。 私は欲望の言いなりになって、夜の闇の一部と化した。 朝になり目が覚めると彼は消えていて、 私はひとりぼっちだった。 ねえ、どこにいるの？ と声を出しても返事はない。 LINEを確認したら彼のアカウントまで消えていた。 行き場のない悔しさと情けなさが同時に込み上げてくる。 彼を追いかけて廊下を走っている時に私は感じたのだ。 ――窓から差す清き正しい光の存在に。 廊下で立ち止まると、頬に伝うものがあった。 窓から降り注ぐ、暖かい光のシャワーを全身に浴びる。 まるで私の悪事の全てが許されるよう。 偽りの優しさに溺れるのはもうこれで最後にしよう。 この朝日のようなしなやかで強い光を、心に灯そう。 それでも涙が止まらない理由はただひとつ。 どうして自分のことをもっと大切にできなかったのか。 冷静に考えれば傷つくことしかない恋だった。 過去の悲しみを全て洗い流し尽くすまで、私は涙を流し続けた。 涙が止まってからホテルを出て、家路に着く。 今までの私とは違うものを、自分の中に感じる。 もはや私の中に彼は1mmも存在していない。 もう同じ過ちは繰り返さない。 私は颯爽と風を切って歩き出す。